鹿屋市の歴史


■鹿屋市(かのやし)は、鹿児島県にある市。九州南東部、大隅半島の中央部に位置する


■縄文時代早期から人の定住があり、弥生時代には王子遺跡といった大規模な集落がみられるようになる


■1300年代初めに鹿屋院は肝付氏の一族である鹿屋氏によって統治され、鶴亀城(後の鹿屋城)を現在の城山公園の位置に置いた


■南北朝時代には荘園が崩壊し、肝付氏は南朝側(公家側)につき、守護大名となった島津氏と対立した


■高須港はこの頃から1573年に至るまで肝付氏の一大拠点として機能するようになり、大姶良は禰寝氏支配地との境界線上になったことから多くの山城が築かれた


■肝付氏亡き後の肝属は、伊集院忠棟が鹿屋城を拠点に地頭として管理した


■1871年 廃藩置県に伴い現在の鹿屋市全域が鹿児島県に属す。廃藩置県後の府県合併に伴い都城県に属す


■1941年 鹿屋町・花岡村・大姶良村が新設合併・市制施行により鹿屋市となる(初代)


■略歴
伊集院忠棟(いじゅういん・ただむね)
【1541年~1599年】戦国時代から安土桃山時代にかけての武将。島津氏の家臣。島津氏の家臣・伊集院忠倉の子として誕生。初名は忠金で天正4年(1576年)までには忠棟と改名している。早くから島津義久に仕え、筆頭家老として島津氏の政務を取り仕切った。武将としても肥後国や筑前国などの出兵で多大な功績を挙げている。忠棟の死後、嫡男の忠真が家督を継いだが、領地の日向都之城に籠り庄内の乱を起こした
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けん玉(剣玉、拳玉、剣球)の歴史


■けん玉(けんだま)は、十字状の「けん(剣)」と穴の空いた「玉」で構成される玩具である

■世界各国で遊ばれており、表記には剣玉、拳玉、剣球などがあるが、21世紀初頭では「けん玉」が一般的


■けん玉は日本発祥の玩具ではない


■ワイングラスと毛糸球、シカの角と木製の玉など2つのものを糸または紐で結び、一方を引き上げまたは振り、もう一方に乗せる・穴を突起物にはめるような玩具は昔から世界中に存在した


■日本に紹介されたのは江戸時代といわれ、1830年に喜多村信節が著した『喜遊笑覧(きゆうしょうらん)』に「安永六七年の頃拳玉と云もの出來たり」とあるのが知られており、当初は酒席の遊びであったと考えられる


■明治時代になり、文部省発行の児童教育解説『童女筌』(どうじょせん、1876年)にて「盃及び玉」として紹介されてから子どもの遊びへと変化していった


略歴・経歴(プロフィール)
■喜多村 信節(きたむら・のぶよ)
【1783年~1856年)江戸期の国学者。江戸後期の風俗百科事典『嬉遊笑覧』の著者であり、喜多村筠庭(きたむら・ いんてい)として知られる。庶民社会の風俗や諸事に詳しく、多くの著作があり、他に『筠庭雑録』、『瓦礫雑考』、『武江年表補正』などがある


■嬉遊笑覧(きゆうしょうらん)は、喜多村信節が江戸時代後期の風俗習慣、歌舞音曲などについて書いた随筆。和漢古今の文献を引用して解説し、体系的に整理した百科事典的な書物で、江戸風俗を知る有益な資料として知られる
小津産業の歴史


■小津産業株式会社(おづさんぎょう)は、東京都中央区日本橋本町に本社を置く企業である


■電子工学分野や医療分野で使われる紙や不織布などの製造販売を行っている


■企業理念
「わたしたちは、伝統とは継続的な開拓の歴史との認識のもと、お客さまの満足や喜びを第一に考えた新しい付加価値を提案し、豊かな暮らしと文化に貢献してまいります」


■創業者:小津清左衛門長弘


■1653年、小津清左衛門長弘が、江戸の商業地大伝馬町(現在の本社所在地)に紙問屋「小津清左衛門店」を創業したのが、現在の小津産業株式会社の始まり


■1755年、紀州藩松坂御為替御用に加わる。江戸表において御為替御用を命ぜられる


■1903年、日本細糸紡績会社の工場を買収、「小津細糸紡績所」を設立


■1939年 小津商事株式会社を設立


■1944年 小津産業株式会社に社名変更


■2001年 東京証券取引所2部に上場


■2014年 東京証券取引所1部に指定替え


略歴・経歴(プロフィール)
■小津清左衛門
現在の小津産業株式会社の創業者。伊勢国松坂(現在の三重県松阪市)出身の伊勢松阪商人。江戸の紙商に奉公し、承応2年(1653年)に独立して、大伝馬町一丁目(現在の日本橋本町三丁目)に紙店「小津屋」を開業した
知床半島の歴史


■知床半島(しれとこはんとう)は、北海道斜里郡斜里町と目梨郡羅臼町にかけてあり、オホーツク海の南端に突出した半島である


■半島東側には国後島が平行する形で横たわっている


■知床半島には、数千年にさかのぼる先史時代の遺跡が数多く残されている


■中でも10世紀前後にオホーツク海沿岸で栄えた北方の漁猟民族によるオホーツク文化の影響を受けて、アイヌの人々はシマフクロウやヒグマ、シャチなどを神と崇め、狩猟や漁撈、植物採取などをしながら豊かな自然を大切にした文化を育んできた


■2005年『第29回世界遺産委員会』において知床の「世界自然遺産」登録が決まった


■知床半島には森繁久弥の大きな銅像がある


■略歴・経歴(プロフィール)
森繁久弥(もりしげ・ひさや)
【1913年~2009年】日本の俳優、コメディアン。元NHKアナウンサー。大阪府枚方市出身。血液型はB型


■世界遺産(せかいいさん)は、1972年のユネスコ総会で採択された「世界の文化遺産及び自然遺産の保護に関する条約」(世界遺産条約)に基づいて世界遺産リストに登録された、遺跡、景観、自然など、人類が共有すべき「顕著な普遍的価値」を持つ物件のことで、移動が不可能な不動産やそれに準ずるものが対象となっている
穴太衆の歴史  


■穴太衆(あのうしゅう)は、日本の近世初期にあたる織豊時代(安土桃山時代)に活躍した、石工の集団。主に寺院や城郭などの石垣施工を行った技術者集団である


■石工衆(いしくしゅう)、石垣職人(いしがきしょくにん)とも称す。「穴太」の歴史的仮名遣での読み仮名は「あなふ」である


■穴太衆積は自然の石を自然の形に積み重ねていくところに特徴があり、石の心がわかり石の声が聞こえてはじめて一人前といわれる


■穴太衆は、近江の比叡山山麓にある穴太(穴太ノ里[あのうのさと]などとも俗称。現在の滋賀県大津市坂本穴太。延暦寺と日吉大社の門前町・坂本の近郊)の出身で、古墳築造などを行っていた石工の末裔であるという


■穴太衆は寺院の石工を任されていたが、高い技術を買われて、安土城の石垣を施工したことで、織田信長や豊臣秀吉らによって城郭の石垣構築にも携わるようになった


■それ以降は江戸時代初頭に到るまでに多くの城の石垣が穴太衆の指揮のもとで作られた


■彼らは全国の藩に召し抱えられ、城石垣等を施工するようになったというが、不明な部分も多い



織田信長(おだ・のぶなが)略歴
1534年~1582年(天文3年~天正10年)尾張の戦国武将。尾張を統一し、桶狭間の戦いで今川義元を破ったのち、斎藤氏を破り美濃を制圧。足利義昭を追放して室町幕府を実質的に滅亡させた。1582年(天正10年)、天下統一を前に家臣の明智光秀に襲われ、京の本能寺で自害した。享年49歳


豊臣秀吉(とよとみ・ひでよし)略歴
1537年~1598年(天文6年~慶長3年)戦国時代から安土桃山時代にかけての武将・天下人・関白・太閤。尾張出身の戦国武将。農家出身ながら、織田信長に仕え、頭角を現す。1582年(天正10年)、本能寺の変で信長が横死にすると明智光秀を討ち、その後の後継者争いに勝利する。1590年(天正18年)、北条氏を下して事実上の天下統一を達成した。 62歳で没
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