上記の広告は1ヶ月以上更新のないブログに表示されています。
新しい記事を書く事で広告が消せます。
大韓航空の歴史・沿革


■株式会社大韓航空(だいかんこうくう)は、大韓民国に本拠地を置く国際航空会社


■韓国のフラッグ・キャリアである


■韓国最大かつアジアで大手の航空会社の一つであり、仁川国際空港を国際線用ハブ空港としてヨーロッパ、アフリカ、アジア、北アメリカ、及び南アメリカとを結ぶネットワークを構築している


■国際貨物国際輸送で世界2位


■国際旅客輸送では世界17位


■現在は物流グループである韓進(ハンジン)グループの中核企業である


■かつては政商として知られる小佐野賢治が90%超の筆頭株主であった


■大韓航空は、1946年設立の大韓国民航空社を前身とし、国営会社である大韓航空公社として1962年に設立された


■赤字が続いたため、1969年に韓進(ハンジン)グループ主導で民営化され株式会社となった


■1972年に米国ボーイング社製のB747ジャンボジェットを購入、また早い段階からエアバスA300も6機保有するなど、将来にわたってグローバルな競争力を身につけるための土台づくりに取り組んだ


■1979年、大韓航空はニューヨークへの旅客直行便を就航


■1980年代には旅客、貨物ともに路線を拡大していく


■1991年のソビエト連邦の崩壊、そして1994年の中国との航空合意により、大韓航空の国際線ネットワークはさらに拡大していく


■1995年、大韓航空は記念すべき100機目の機材を導入した
スポンサーサイト
サーラ住宅の歴史・沿革


■サーラ住宅株式会社は、愛知県豊橋市に本社を置く住宅メーカーでサーラグループの構成会社

■特色:愛知、静岡地盤のサーラグループの中核。高気密高断熱住宅に特徴。宅地開発、マンション分譲も行う

■サーラ住宅株式会社
設立年月日:1969年11月17日
市場名:東証2部 名証2部
上場年月日:2005年12月5日
本社所在地:愛知県豊橋市白河町100
従業員数:(単独)244人
平均年齢:40.1歳
平均年収:6,090千円

■企業理念
私たちサーラ住宅は、常に広い視野で真の住まいのあり方を探求し、お客さまのこだわりを100%カタチにするために、3つのクオリティをお約束します。人と住まいと環境における最高のクオリティの実現・・・それが、サーラ住宅の"らしさ"です
中島飛行機の歴史・沿革


■中島飛行機は1917年から1945年まで存在した日本の航空機・エンジンメーカー。エンジンや機体の開発を独自に行う能力と、自社での一貫生産を可能とする高い技術力を備え、第二次世界大戦終戦までは東洋最大、世界有数の航空機メーカーであった

■中島飛行機株式会社
設立:大正7年
創業者:中島知久平(なかじま・ちくへい)
従業員:約25万人
工場:全国に100ヶ所以上

■わが国史上、最大の軍需工場で終戦までに計29925機の航空機を生産。第2次大戦中の名機、隼(はやぶさ)、疾風(はやて)、鍾馗(しょうき)などいずれも中島飛行機が手掛けた。三菱が設計した零戦の全体の約2/3も中島飛行機が生産。戦後は解体され工場の幾つかが、富士重工、富士精密に受け継がれた。そして富士精密がプリンス自動車さらに日産自動車に変わる。

■主な製作所、工場(関東地方とその周辺)
・太田製作所(群馬県)・・・隼を量産
・桐生工場(群馬県)
・宇都宮製作所(栃木県)

■東京都
・武蔵野製作所(主に陸軍の航空発動機を生産)
・多摩製作所(主に海軍の航空発動機を生産)
・武蔵製作所(昭和18年11月に生産効率を上げるため武蔵野製作所と多摩製作所を統合
し武蔵製作所となる。国内の25%を占める日本最大の大航空発動機生産工場となる。従
業員の数は徴用工や学徒動員などを含めて約4万人いた)
・三鷹研究所→富士産業三鷹工場→富士工業三鷹工場→富士重工三鷹製作所
・東京製作所(荻窪工場)→富士精密→プリンス自動車→日産自動車(荻窪工場)
・田無運転場
・立川出張所
・大宮製作所(埼玉県)
・三島製作所(静岡県)、浜松製作所(静岡県)

■中島知久平(なかじま・ちくへい)略歴
明治17年~昭和24年(1884年~1949年)わが国史上、最大の軍需工場・中島飛行機(のちの富士重工業)の創始者、実業家、政治家。大正・昭和初頭にかけて国防思想の主流となった「大艦巨砲主義」に異を唱え、はやくから「航空機主義」を主張し、大正7年、35歳の時、みずから民営航空機企業、『中島飛行機』をつくった。群馬県新田郡の富農に長男として生まれ、明治33年17歳で家出を敢行。独学により海軍機関学校に入学、明治40年代はじめより憑かれたように航空機の研究に熱中した。第2次大戦中の名機「隼(はやぶさ)」「疾風(はやて)」「鍾馗(しょうき)」など、いずれも中島製作所が手掛けた。しかし、敗戦とともにA級戦犯に指定され、自宅拘禁。その後、戦犯指定を解除されたが、財産凍結の措置を受けたまま脳溢血で没した
東和電機製作所の歴史・沿革


■株式会社東和電機製作所は北海道・函館を本拠地に、イカ釣りロボットの開発で全国に名をとどろかせている

■イカ釣りロボットは、日本のみならず、中国や韓国、南米、ニュージーランドなどに輸出、世界シェアは実に7割を誇る

■株式会社東和電機製作所は1963年(昭和38年)、浜出慈仁が函館ドックの下請工場として、船舶の配電盤、分電盤を製作する製作所として創業

■1970年 全自動イカ釣機発売

■1974年 イカ釣機用集中制御盤発売

■1983年 イカ釣りロボット開発

■1984年 世界初コンピューター式全自動イカ釣機MY-1型発売

■同年 初代社長・浜出慈仁急逝

■同年 息子の浜出雄一が社長に就任

■イカ釣りロボットは日本のみならず、中国や韓国、南米、ニュージーランドなどに輸出、世界シェアは実に7割を誇る

■他に集魚灯のLED化や海の環境保護として海水電解装置の開発にも熱心に取り組んでいる

■浜出雄一(はまで・ゆういち)経歴(プロフィール)
日本の経営者。株式会社東和電機製作所の代表取締役社長。1947年生まれ。北海道函館市出身。武蔵工業大学(機械専攻)卒業。1970年、東和電機製作所に入社。設計課に所属し、さまざまな生産設備改良業務に取り組み、同社の主要製品である自動イカ釣り機の進化に貢献。1984年父親が亡くなった後、同社の社長に就任した
// ホーム //
Powered By FC2ブログ. copyright © 2017 歴史 all rights reserved.
上記広告は1ヶ月以上更新のないブログに表示されています。新しい記事を書くことで広告を消せます。