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株式会社大塚家具の歴史・沿革


■株式会社大塚家具は、東京都に本社をおく家具販売会社である。会社の商号としては株式会社大塚家具であるが、一般にはコーポーレートブランドネーム(商標)として「IDC大塚家具」(アイディーシーおおつかかぐ)の名称を用いている


■小売りだけではなく法人向けのコントラクト事業も手がけており、ホテルや医療施設などの内装のトータルコーディネートなども行っている


沿革
■1969年(昭和44年)3月 埼玉県春日部市にて、株式会社大塚家具センターを設立


■1969年4月 春日部駅西口に1号店開店


■1972年8月 販売専門会社株式会社桔梗設立。春日部駅東口にて営業開始。本社春日部市


■これに伴い株式会社大塚家具センターは仕入れ会社に業務変更


■1978年2月 都内第1号店として「東京店」開設


■1978年2月 株式会社不二越銃砲火薬店(1978年7月商号を株式会社大塚家具に変更)が、株式会社大塚家具センター、株式会社桔梗、合資会社大塚箪笥店を合併


■1980年6月 株式を店頭登録銘柄として登録


■1984年6月 本社を千代田区有楽町に移転


■1993年 会員制導入


■1996年3月 本社を江東区有明(現・本社所在地)に移転


■1996年4月 日本最大(家具・インテリア専門店として)「有明本社ショールーム」開設


■2011年2月 「立川ショールーム」開設


概要
■株式会社大塚家具
創業:1969年3月
設立:1972年8月
創設者:大塚勝久
資本金:10億8,000万円
本社:東京都江東区有明3-6-11


■創業者
大塚勝久略歴・経歴(プロフィール)
日本の実業家。大塚家具創業者。1943年、桐タンスの名産地・埼玉県春日部市生まれ。桐タンス職人の父親の店を子供の頃から手伝う。1969年、独立し、株式会社大塚家具センターを設立。国内最大の規模を誇る有明本社ショールームを始め、三越の新宿南館と横浜店、大阪南港ショールーム、2004年にはみなとみらいと、次々と大型ショールームを展開した
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株式会社山田養蜂場の歴史・沿革


■株式会社山田養蜂場(やまだようほうじょう)は、岡山県苫田郡鏡野町に本社を置くミツバチ産品の通信販売を行う企業である


■中国山地の中央部にある苫田郡鏡野町を本社とし、健康食品や化粧品のミツバチ産品を製造・販売している。健康食品、はちみつ、化粧品を合わせ、取扱商品は200種類以上ある


沿革
■1948年(昭和23年)に山田政雄が徳島で在来種の蜜蜂を購入、飼育を始める。名称を山田養蜂場とした


■1951年 ヨーロッパ種の種蜂を仕入れ、本格的に養蜂を始める。転地式養蜂は、四国・児島・鏡野町を中心におこなう


■1958年 「山田式蜂蜜チューブ充填機」の試作に成功、日本で初めてのチューブ詰はちみつを生産開始


■1963年 日本初の「蜂蜜梅漬」の製品化に成功


■1995年 株式会社山田養蜂場設立


■1996年 ローヤルゼリー全国シェア20%を達成。 クロレラ出荷量月額日本一を記録


■1997年 岡山県苫田郡鏡野町の社屋・工場を新築。製造から配送までの一貫体制の充実を図る


■2014年 「機能性素材」と「ミツバチ産品」を組み合わせた「ミツバチ博士」シリーズを販売開始


概要
■株式会社山田養蜂場
創業:1948年5月
設立:1982年8月
創設者:山田政雄
所在地:岡山県苫田郡鏡野町市場194
業務内容:ミツバチの飼育及びミツバチ製品の原料仕入・研究・開発・製造・通信販売


創業者
■山田政雄(やまだ・まさお)略歴・経歴(プロフィール)
日本の実業家。株式会社山田養蜂場の創業者。徳島県出身。1948年に養蜂場を創業し、女王バチの餌で豊富な栄養素を含むローヤルゼリーの大量生産に成功した。2015年死去。享年87
独立行政法人日本医療研究開発機構の歴史・沿革


■省庁間の縦割りを排し、日本の医療研究の司令塔として政府が2015年4月に設立


■2015年度予算は1248億円


■日本医療研究開発機構は政府の成長戦略で設立が決まり、画期的な新薬や医療機器が期待される分野に研究費を効率よく投じる目利き機能が期待される


■職員数は300人規模で、米国立衛生研究所(NIH)も参考に、メリハリを付けた研究費配分の仕組みをつくる


■日本医療研究開発機構には、臨床研究や創薬支援、産学連携、国際研究などの事業ごとに部署を設置。知的財産や法務などの面から研究開発を支援する部門も設ける


■職員は関係国の研究機関などから約100人を集めるほか、大学や企業など民間からも、任期付きで約200人を集める


■理事長: 末松誠(慶應義塾大学医学部長)


■10人ほどいた理事長候補から若さと行動力が買われ、末松誠が選ばれた


■末松誠(すえまつ・まこと)は1967年生まれ。慶應大学で、特殊な顕微鏡を駆使してがんの仕組みに迫る研究に打ち込む一方、医学部長として学生教育や若手医師の待遇改善、附属病院の経営立て直しに奔走した
アマゾン社の歴史・沿革


■Amazon.com, Inc.(アマゾン・ドット・コム)は、アメリカ合衆国・ワシントン州シアトルに本拠を構える通販サイトである


■インターネット上の商取引の分野で初めて成功した企業の1つである


■事業開始日:1995年(平成7年)7月16日


■創設者:ジェフ・ベゾス


■最高経営責任者(CEO):ジェフ・ベゾス


■本社所在地:ワシントン州シアトル


■年間売上高:342億ドル(2010年度)


■社員数:世界各地に3万3千人以上(2010年時点)


■アマゾン社の企業場所:ワシントン州ベルビューにある小さな住宅のガレージ


■社員番号1番:シェル・カファーン


■最初の社名:カダブラ


■amazon.comを名義登録した日:1995年2月9日


■株式公開年月日:1997年5月15日


■日本語ウェブサイト立ち上げ:2000年


■アマゾンで電子書籍が印刷本の売り上げを抜いた日:2011年4月1日


■創業者・ジェフ・ベゾスの略歴
アメリカの実業家。Amazon.com の創業者。1964年1月12日ニューメキシコ州で生まれる。プリンストン大学卒業後、金融機関の会社に就職し、30歳で副社長に就任。94年に突然退社してオンライン書店、現・アマゾンドットコムを創業した
下田踏海事件(しもだとうかいじけん)の歴史


■嘉永7年(1854年)3月27日、吉田松陰と松陰の一番弟子の金子重之助(重輔)が、下田沖の軍艦に潜入し海外密航を企て失敗した。これを松陰は「下田踏海」と呼んだ。伊豆下田市の歴史年表の中には、吉田松陰のことについては、「吉田松陰密航失敗」と、ほんの一行しか記録がないが、この下田踏海事件は、松陰のその後の人生に大きな影響を与えた


■吉田松陰(よしだ・しょういん)略歴
【1830年~1859年(文政13年~安政6年)】長州藩士、思想家、教育者、兵学者。萩城下松本村で長州藩士・杉百合之助の次男として生まれる。1854年、ペリー2度目の来航の際、長州藩足軽・金子重之助とともに密航計画を企てるも失敗、萩の野山獄に幽囚される。1855年、生家で預かりの身となるが、1857年、叔父の玉木文之進が開いていた私塾・松下村塾を引き受けて主宰者となり、高杉晋作をはじめ久坂玄瑞、伊藤博文、山県有朋、吉田稔麿、前原一誠など、維新の指導者となる人材を教え育てる。最期は江戸伝馬町の獄において斬首刑に処される。29歳で没


■金子重之輔(かねこ・しげのすけ)略歴
【1831年~1855年】幕末の長州藩士。江戸に出て長州藩邸の雑役となる。学問を志して蒼龍軒塾に通い諸藩の志士と交わっていた際、同郷の松陰を紹介され、松陰初の弟子となった。ペリー来航を受けて松陰が米国に密航しようとした下田踏海事件では自ら進んで米国行きを希望。従者として松陰を手助けしたが、失敗。松陰と共に自首する。安政2年(1855年)に岩倉獄にて獄死する
ダントーホールディングスの歴史・沿革


■ダントーホールディングス株式会社は、日本の大手タイルメーカー、ダントー株式会社等の傘下事業会社を持つ持株会社である

■大阪市に本社を置くが、本店所在地は兵庫県南あわじ市


沿革
■文政年間に淡路島の南端、現在の南あわじ市で賀集珉平翁が始めた珉平焼は、当時の藩主蜂須賀公のお手窯として、主に花器、茶器などを作り、着色に用いた光沢釉は、いわゆる淡路焼ともいわれ広く名声を博した


■1885年(明治18年) 珉平焼を、継承して、資本金1万円をもって「淡陶社」を設立。食器、花器、玩具などの製造販売を始める


■1891年 淡陶株式会社に社名変更


■1966年 東証1部に上場


■1985年 ダントー株式会社に社名変更。


■2006年 会社分割による持株会社制への移行。 ダントー株式会社は、ダントーホールディング株式会社に商号変更。 新たに、グループ会社として、ダントー株式会社、ダントープロダクツ株式会社、ダントーキャピタル株式会社を設立


■2012年 株式会社Danto、株式会社Danto Tileとして、組織の再編と社名変更を行う

■ダントーホールディングス株式会社の社長
加藤友彦(かとう・ともひこ)略歴・経歴(プロフィール)
兵庫県出身。1982年(昭和57年)慶應大学商学部卒業。淡路交通に入社。1992年 ダントー(現・ダントーホールディングス)取締役。2015年1月23日 社長に就任(会長兼務)
ピーエムシー株式会社の歴史・沿革


■ピーエムシー株式会社は東京都に本社を置く民間軍事会社である


■本社所在地:東京都江東区青海


■設立:2014年1月


■設立者:湯川遥菜(ゆがわ・はるな)


■代表者:湯川遥菜(最高経営責任者)


■資本金:300万円


■事業内容
・国際民間軍事業、国外警護、海上護衛(武装ガード)、後方支援業務、紛争地域等での護衛


■湯川は、2000年ごろに軍用ヘルメットなどを販売するミリタリーショップを開業したことがある


■湯川遥菜(ゆがわ・はるな)略歴・経歴(プロフィール)
千葉県内の高校を卒業後、2000年ごろに軍用ヘルメットなどを販売するミリタリーショップを開業した。この店は3~4年後に倒産し、借金を抱え夜逃げをする。公園で1カ月近く生活することもあった。名前を「正行」から「遥菜」に変え、日中戦争当時に「東洋のマタハリ」や「男装の麗人」の異名をとった日本軍スパイ、川島芳子の生まれ変わりを自称していた


■湯川遥菜http://nihonnokakeizu.net/blog-entry-1256.html
インデペンデント・プレスの歴史・沿革


■インデペンデント・プレスは1996年に設立された映像通信会社である


■所在地:東京都港区赤坂9-1-7-534


■フリージャ-ナリストの後藤健二によって設立された


■後藤はアフリカや中東などの紛争地帯の取材が豊富なジャーナリストである


■「戦地の子供たちを救いたい」というのが口癖で、常に弱者の味方である

■2006年『ダイヤモンドより平和がほしい』で、第53回産経児童出版文化賞を受賞している


■後藤健二(ごとう・けんじ)略歴・経歴(プロフィール)
日本のフリージャーナリスト。1967年生まれ。宮城県仙台市出身。東京放送系のテレビ番組制作会社を経て。1996年に映像通信会社インディペンデント・プレスを設立。アフリカや中東などの紛争地帯の取材に携わる。2006年、『ダイヤモンドより平和がほしい』で、第53回産経児童出版文化賞を受賞


■後藤健二(ジャーナリスト)
http://nihonnokakeizu.net/blog-entry-1257.html
関西ペイント株式会社の歴史・沿革


■関西ペイント株式会社は大阪府大阪市中央区に本社を置く総合塗料の製造販売をおこなう企業である


沿革
■前身である関西ペイント工業所を、玉水弘により、1917年に尼崎市神崎で創業


■1918年 関西ペイントを設立


■1926年 国産初のラッカー「セルバ」を発売


■1933年 東京支店設立、東京工場竣工


■1987年 カンサイペイント(アメリカ)社を設立


■2000年 国産初の自動車補修用水性ベースコートを開発


■2002年 関西ペイントフィリピンの合弁会社設立


■2011年4月 南アフリカ フリーワールドコーティングス社の株式取得、連結子会社化


■2011年12月 ベトナム カンサイアルファナムペイントを設立、連結子会社化


概要
■関西ペイント株式会社
設立:1918年(大正7年)5月
設立者:玉水弘
資本金:25,658百万円
従業員数:11,917名(連結ベース、2014年3月31日現在)
本社所在地:大阪市中央区今橋二丁目6番14号


■事業内容
・各種塗料の製造・販売
・配色設計
・バイオ関連製品および電子材料関連製品の製造・販売


創業者
■玉水弘(たまみず・ひろし)略歴・経歴(プロフィール)
日本の実業家で関西ペイントの創業者。東京帝国大学(現:東京大学)応用化学科卒業。先発メーカーの日本ペイント、東亜ペイントを経て独立。1917年に関西ペイント工業所を創業した


■二男一女をもうけたが、2人の息子が若くして戦死したことにより、現在の関西ペイントの経営に玉水家は全く無縁である
永楽大典の歴史・沿革


■永楽大典(えいらくたいてん)とは、中国明代に編纂された中国最大級の類書のことである。22,877巻・11,095冊・目録60巻、1408年(永楽6年)の成立である


■永楽大典は、1400年代の中国の皇帝だった永楽帝(えいらくてい)の指示で、2千人以上の中国人の学者が編纂した百科全書である


内容
■経・史・子・集の四部から、天文・地誌・陰陽・医卜・僧道・技芸に及ぶ、あらゆる図書を原本によって蒐集している


■インターネットの百科事典・ウィキペディアが出来るまでの600年間、この永楽大典が世界でもっとも情報量が多いと言われた


■永楽帝(えいらくてい)略歴
【1360年~1424年】明の第3代皇帝。諱は棣(てい)。一般的に日本ではその在位中の元号から永楽帝と称される。永楽帝は明の最大版図を築き、鄭和の大航海などの事業を起こすなど、気宇壮大な人であった。父・洪武帝とともに明の基礎を固めたのは永楽帝であると言われる
ウィキペディアの歴史・沿革


■ウィキペディア(英: Wikipedia)は、ウィキメディア財団が運営しているインターネット百科事典。コピーレフトなライセンスのもと、誰もが無料で自由に編集に参加できる


■世界の各言語で展開されている


■創設者:ジミー・ウェールとラリー・サンガー


■サービス開始日:2001年1月15日


■スローガン:無料の百科事典


■運営
・ボスミ社(2001年~2003年)
・ウィキメディア財団(2003年~現在)


■本部:カリフォルニア州サンフランシスコ(ウィキメディア財団)


■執筆・編集:世界各地のボランティア


■ウィキメディア財団の職員数:142人(2012年現在)


■全記事数:31,418,020記事(2014年5月1日現在)


■日本語版 942,816記事(2014年5月1日現在)


■編集言語数:285言語(2012年現在)


■アレクサ順位:6位(2012年現在)


■アレクサ順位とは、アレクサ社による、どのウェブサイトがどれだけの人に見られているかについての調査結果のこと


■創設者
ジミー・ドナル・ウェールズ略歴・経済(プロフィール)
インターネット百科事典のウィキペディアの創設者。ウィキメディア財団の名誉理事長。1966年、アメリカのアラバマ州ハンツビルに生まれる。アラバマ州オーバーン大学卒


■創設者
ラリー・サンガー略歴・経歴(プロフィール)
アメリカの哲学者、大学教授。インターネット百科事典のウィキペディアの創設者の一人。1968年7月16日、ワシントン州ベルヴューで生まれる
株式会社タツノコプロの歴史・沿革


■株式会社タツノコプロは、アニメーションの企画・制作および版権管理を主な事業内容とする日本の企業。日本動画協会正会員


■漫画等の原作をもとにしないオリジナルアニメを得意とし、そのため作品にかかわる権利の9割以上を自社単独で保有している


沿革
■1962年(昭和37年) 10月19日、 漫画家の吉田竜夫が、自身のマネージャーを務めていた弟の吉田健二らと共に「株式会社竜の子プロダクション」(現・タツノコプロ)を設立


■竜夫の末弟で漫画家の九里一平(本名: 吉田豊治)も、竜夫と健二に勧められるまま参
加。3兄弟が代表権を持つ取締役に就任し、竜夫が社長、健二が専務、九里が常務となった


■2005年6月末 大手玩具メーカータカラ(現: タカラトミー)が吉田家から株式の88%を取得、タカラ傘下に


■2005年7月1日 吉田健二会長と九里一平社長が退任。吉田洋子、吉田富子ら一族の役員も全員退任し、吉田家がタツノコプロの経営から離れる


■2014年1月29日 日本テレビ放送網がタカラトミーが保有する株式のうち、発行済み株式54.3%を取得し子会社化すると発表。タカラトミーは引き続き株式20%を保持し、提携関係を継続する


概要
■株式会社タツノコプロ
設立:昭和37年10月19日
設立者:吉田竜夫
従業員数:60名(平成25年12月31日現在)
住所:東京都武蔵野市中町1-19-3 武蔵野YSビル2F


■主な事業内容
アニメーション映画等の企画制作、キャラクターの企画、デザイン、制作、映像、キャラクター等の国内外ライセンス


■創業者
吉田竜夫(よしだ・たつお)略歴・経歴(プロフィール)
【1932年~1977年】日本の昭和時代中期から後期の漫画家、アニメ原作者。アニメ製作会社竜の子プロダクション(タツノコプロ)の設立者・初代社長。1932年3月6日、京都府京都市で生まれた。1962年10月、「株式会社竜の子プロダクション」(たつのこプロダクション)として設立。1970年代を中心に、多くの人気作品を世に出した。コーポレート・キャラクターはタツノオトシゴである。1977年9月5日、肝臓がんのため死去。享年45
津田駒工業株式会社の歴史・沿革


■津田駒工業株式会社は、石川県金沢市に本社を置く繊維機械、工作機械用アタッチメントの専門メーカーである


■国内の織機でトップシェアであり、ジェット・ルーム(高速自動織機)の生産では、世界トップシェアを誇る


沿革
■1909年 金沢市茨木町において故津田駒次郎翁が個人経営のもとに絹・人絹織機の製造を開始


■1937年 インデックス(円テーブル)の開発始まる(工作用機器事業開始)


■1939年 津田駒工業株式会社に改組


■1962年 現社名に変更


■1961年 東京証券取引所、大阪証券取引所各2部上場


■1968年 東京証券取引所、大阪証券取引所各1部上場


■1977年 エアジェットルーム、ウォータジェットルーム生産開始


■1993年 ジェットルーム生産100,000台達成。


■2004年 大阪証券取引所上場廃止


■2006年 ジェットルーム生産200,000台達成


概要
■津田駒工業株式会社
設立:昭和14年12月30日(創業 明治42年3月)
資本金:123億1,654万円(平成25年11月30日現在)
年間売上高:411億7700万円(平成25年度)
従業員:967名(平成25年11月30日現在)
本社:石川県金沢市野町5丁目18番18号


■事業内容
繊維機械、工作機械用アタッチメントの生産


■創業者
津田駒次郎(つだ・こまじろう)略歴・経歴(プロフィール)
【1878年~1945年】明治-昭和時代前期の実業家。津田駒工業株式会社の創業者。明治11年4月4日生まれ。津田米次郎の従兄弟(いとこ)の子。米次郎の力織機製造をたすける。明治42年郷里の金沢に津田駒次郎工場をつくり、絹人絹用力織機を製造。昭和14年津田駒工業を設立し社長となった。昭和20年8月6日死去。68歳
(有)江見屋かけつぎ専門店の歴史・沿革


■「江見屋かけつぎ専門店」は名古屋を本拠地とする


■所在地:愛知県名古屋市東区出来町1-3-18


■江見屋の店名は母方の姓に由来する


■かけつぎとは簡単にいうと洋服などの穴を塞ぐ修理のこと


■「かけつぎ」と呼ばれる衣類に空いた穴を元通りに塞ぐ技術で、多くの服を再生してきた


■依頼は全国から殺到。依頼主は、個人客だけでなく、百貨店、高級ブランド店、さらには同業者と多様


沿革
■「江見屋かけつぎ専門店」は1962年に松本孝夫が創業したことに始まる


■創業当時は生地といえば綿、絹、ウールが主流であった


■時代とともに化繊等新しいものが出てきた


■松本は新しい生地が出るたびに、それを一旦ばらし、一本一本の「織り方」を紙に描き写した


■そして、それを織る。ほぐしては描き、そしてまた織る。手が覚えるまで徹底的に繰り返してきた


■修行時代からのその修練により、気がつけば、頭の中には100種類を超える織り方が入った


■これまで松本が培ってきた、技術やノウハウはノートに書きとめられており、弟子に受け継がれている


創業者
■松本孝夫(まつもと・たかお)経歴(プロフィール)
日本の「かけつぎ職人」。有限会社江見屋かけつぎ専門店の創業者。1942年生まれ。兵庫県神戸市出身。高校卒業後、名古屋で修行する。1962年「江見屋かけつぎ専門店」創業。2007年、名古屋市技能功労者表彰。2011年、愛知県優秀技能者表彰
はごろもフーズ株式会社の歴史・沿革


■はごろもフーズ株式会社は、日本の食品メーカー


■静岡県静岡市清水区に本社がある


■缶詰やレトルト食品、パスタ等を製造する


■ツナ缶のトップブランド「シーチキン」や「シャキッとコーン」、「ポポロスパゲティ」、「ポポロサラスパ」などが有名である


■ペットフードや魚油・飼料などの製造販売なども行っている


■社名は三保の松原の羽衣伝説に由来する


沿革
■1931年5月 後藤缶詰所として創業


■ツナ缶を日本の食生活に持ち込んだことで知られる


■1947年 会社設立。(株式会社清水屋)


■1948年5月 後藤物産缶詰株式会社に社名変更


■1958年11月 「シーチキン」の商標を登録


■1969年7月 はごろも缶詰株式会社に社名変更


■1987年12月 CI導入により「はごろもフーズ株式会社」に社名変更


■2000年2月 東証2部上場


■2010年8月 株式会社マルアイが製造販売している一部乾物製品(削り節、ふりかけなど)の販売権を譲受


■概要
商号:はごろもフーズ株式会社
創業:昭和6年5月25日
設立:昭和22年7月28日
資本金:14億4166万円
売上高:単体716億円 連結731億円(平成26年3月期)
従業員:単体606名 連結759名(平成26年3月末現在)
上場証券取引所:東京証券取引所 市場第二部(証券コード2831)


■事業内容
・缶詰・レトルト食品・ギフトセット・パスタ・パスタソース・包装米飯などの各種食品の製造・販売
・ペットフード・フィッシュエキス等の製造・販売


事業所
■本社
静岡県静岡市清水区島崎町151


■支店
東京・名古屋・大阪


■営業所
札幌をはじめ全国27ケ所


■工場
焼津プラント:静岡県焼津市大島742
バイオプラント:静岡県焼津市惣右衛門字稗島1225‐8
富士山パスタプラント:静岡県静岡市清水区島崎町151-1
サンライズプラント:静岡県焼津市田尻1855-24


■海外
バンコック駐在員事務所
理研ビタミン株式会社の歴史・沿革


■理研ビタミン株式会社は東京都の調味料メーカー


■乾燥わかめフレークの「ふえるわかめちゃん」シリーズをはじめ、「わかめスープ」「ノンオイル青じそドレッシング」などのメーカーである


■戦前の財団法人理化学研究所が母体であり、ビタミンAの製造部門を引き継ぐ形で発足した


■理研ビタミンは、ビタミンAの抽出技術を起点に、天然物の有効利用を図りながら、独創的な製品づくりを続けてきた


沿革
■1938年 財団法人理化学研究所を母体として、研究成果を工業化するための理研栄養薬品株式会社を設立


■1949年 理研栄養薬品株式会社ビタミン部門が分離独立し、ビタミン油(肝油)の製造販売目的の理研ビタミン油株式会社設立


■1961年 東証第2部に上場


■1964年 理研食品株式会社設立


■1980年 理研ビタミン株式会社に社名変更


■2014年 東証第1部に指定替え


概要
■理研ビタミン株式会社
設立:1949年 (昭和24年) 8月
資本金:25億3700万円
従業員数:930人(連結2,778人)(2014年9月末現在)


事業内容
■家庭用食品、業務用食品、加工食品用原料、食品用改良剤、化成品用改良剤、ビタミン類などの製造・販売


■本社
東京都千代田区三崎町2-9-18


■創業者
永持孝之進 (ながもち・たかのしん)略歴
日本の経営者。理研ビタミン創業者、理研ビタミン名誉会長。三重県出身。1941年、理研ビタミンの前身、理研栄養食品に勤務。戦後、同社倒産でビタミンAを分離独立。のちの理研ビタミンおよび理研食品㈱の創業者として礎を築き、社長、会長、名誉会長を歴任した
富久丸百貨店の歴史・沿革


■『上流階級 富久丸百貨店外商部』( ふくまるひゃっかてんがいしょうぶ)は作家・高殿円(たかどの・まどか)の小説である


■『小説宝石』(光文社)にて2012年12月号から2013年7月号まで連載された


■これを原作としてテレビドラマ化もされた(2015年1月放送)


■原作にある富久丸百貨店は、大阪・堂島に本店を置く老舗高級百貨店で、物語の舞台となるのは兵庫県の「芦屋川店」


■富久丸百貨店芦屋川店は、大阪の本店と比べると規模は小さいが、場所が場所だけに利用者に富裕層が多い


■そのため二階はすべてシャネル・エルメス・ブルガリ・カルティエなど名だたる海外の一流メーカーのテナントで埋まっている


■しかし、芦屋川に原作の描写に合う百貨店は存在しない


■原作にもう一つ登場する店舗が、神戸・元町の旧居留地にある富久丸百貨店神戸元町店


■ロケには、旧居留地のこの大丸神戸店が使用された


■大丸神戸店
・神戸市中央区明石町40番地
・JR元町駅、阪神元町駅より南へ徒歩3分 / 地下鉄海岸線 旧居留地・大丸前駅よりすぐ


■キャスト
・鮫島静緒(富久丸百貨店神戸元町店の外商部員)演:竹内結子
・桝家修平 演:斎藤工
・邑智崇 演:竹中直人
・葉鳥士朗 演:草刈正雄
・倉橋和子 演:浅野ゆう子(特別出演)
・鶴顕子 演:高畑淳子
・清家弥栄子 演:森口瑤子
・島田五郎 演:渡辺いっけい
・神野久臣 演:田中哲司
・時任真由美 演:倍賞美津子
・紅蔵栄一 演:桂文枝
日プラ株式会社の歴史・沿革


■日プラ株式会社は、香川県木田郡三木町にあるアクリルパネルメーカー


■海遊館(大阪)や沖縄美ら海水族館をはじめとする水族館の水槽を製作していることでも知られる

■日プラは香川県にある従業員80人ほどの中小企業であるが、世界の水族館の巨大水槽製作でギネスブック記録を3度更新している


沿革
■1969年 日プラ化工株式会社を香川県高松市に設立 (資本金 100万円)


■1970年 屋島山上水族館に世界初のアクリル製回遊水槽を納入


■1976年 本社を香川県木田郡牟礼町に移転


■1982年 海外市場への参入


■1996年 ソウル事務所開設


■1996年 事業の拡大と業態の変化に伴い、日プラ株式会社に社名変更


■高さ8.2m、幅は22.5m、テニスコート程の大きさで、完成後の2003年に、ギネスに世界最大と認定された


■2008年には「ザ・ドバイモール」の水族館でギネス記録を塗り替えた


■2014年1月には、中国・広東省の水族館で高さ8.3m×幅39.6mの水槽パネルを作り、3度もギネス記録を更新した


■日プラ株式会社の創業者
敷山哲洋(しきやま・てつひろ)経歴(プロフィール)
日本の実業家。水族館の水槽を製作する日プラ株式会社の創業者。日プラは香川県にある従業員80人ほどの中小企業であるが、世界の水族館の巨大水槽製作でギネスブック記録を3度更新している。1933年兵庫県生まれ。地元の工業高校を卒業し、メーカーに就職。1969年に同僚とともに現在の会社の前身である日プラ化工を設立する。2007年からは新屋島水族館の経営も引き受けている



■日プラ株式会社(概要)
設立年月日:1969年9月
設立者:敷山哲洋
資本金:8,000万円
本社:香川県木田郡三木町井上3800-1


■事業内容
水槽用大型アクリルパネル「アクアウォール」の設計・製造・施工、水槽内防水ライニング工事「スミライニング」、映像スクリーン「ブルーオーシャン」の製造・販売、水族館施設等の企画・設計・コンサルタント業務


事業所
■本社・本社工場
香川県木田郡三木町井上3800-1


■志度工場
香川県さぬき市鴨庄4532-28


■沖縄工場
沖縄県うるま市州崎12-61


■神戸工場
兵庫県神戸市中央区港島南町4丁目5-7
海防臆測の歴史・沿革


■海防臆測(かいぼうおくそく)は江戸後期の儒学者、古賀侗庵(こが・どうあん)が書いた書物である


■頑なに鎖国を維持する幕府の対外政策を批判し、外国と渡り合うために海外への進出、貿易を行なうべきだとする「海外進出論」を主張したもので、海防臆測は幕府の政策を否定し内乱を招くものとして、「禁書」とされた


■「海防臆測」は後世、山田亦介(長州藩士。松陰の師)や吉田松陰(教育者)、小田村伊之助(初代群馬県令(知事)、貴族院議員)らに影響を与えた


■山田亦介は「海防憶測」を出版した罪で隠居となり、知行も削減されている


■山田亦介(やまだ・またすけ)略歴
1809年~1865年(文化5年~元治元年)江戸時代末期の武士・長州藩士。大組頭山田家の嫡男で、天保期に藩政改革を指導した村田清風の甥にあたる。甥に初代司法大臣、山田顕義がいる。海防や軍艦製造に関わり、兵制改革に当たって西洋式を採用した。また、1845年(弘化2年)吉田松陰(寅次郎、当時15歳)に長沼流兵学を教授し、世界の大勢に着目することを教えた師でもあった。1852年(嘉永5年)、古賀侗庵の『海防憶測』を出版した罪で隠居となり、知行も削減される。57歳で処刑された


■吉田松陰(よしだ・しょういん)略歴
【1830年~1859年(文政13年~安政6年)】長州藩士、思想家、教育者、兵学者。萩城下松本村で長州藩士・杉百合之助の次男として生まれる。1854年、ペリー2度目の来航の際、長州藩足軽・金子重之助とともに密航計画を企てるも失敗、萩の野山獄に幽囚される。1855年、生家で預かりの身となるが、1857年、叔父の玉木文之進が開いていた私塾・松下村塾を引き受けて主宰者となり、高杉晋作をはじめ久坂玄瑞、伊藤博文、山県有朋、吉田稔麿、前原一誠など、維新の指導者となる人材を教え育てる。最期は江戸伝馬町の獄において斬首刑に処される。29歳で没


■小田村伊之助略歴
【1829年~1912年】日本の官僚、政治家。吉田松陰とは深い仲であり、松陰の妹2人を妻とした。1829年4月18日、長門国萩魚棚沖町で生まれる。初代群馬県令(知事)、高等法院陪席裁判官・貴族院議員・宮中顧問官等を歴任した。錦鶏間祗候正二位勲一等男爵。1912年8月14日没。享年83
新党「日本を元気にする会」の歴史・沿革


■設立日:2015年1月8日(東京都選挙管理委員会に届け出た日)


■解党したみんなの党に所属していた松田公太参院議員ら4人と、次世代の党に離党届を提出したアントニオ猪木参院議員が立ち上げた党である


■初代代表には松田公太参院議員が就任した


■党の理念
「国民と向き合い、議論し、その結果を尊重する党」


■党のメンバー
・松田公太参院議員(代表者)
・アントニオ猪木参院議員
・井上義行参院議員
・山口和之参院議員
・山田太郎参院議員


■松田公太(まつだ・こうた)略歴
日本の政治家、実業家。参議院議員、タリーズコーヒージャパン創業者。1968年宮城県で生まれる。筑波大学卒業後、三和銀行(現・三菱東京UFJ銀行)に入行。1998年、 タリーズコーヒージャパン株式会社を設立、代表取締役社長に就任。約300店舗を有する一大コーヒーチェーン店に育て上げた。2010年、参議院議員に当選


■アントニオ猪木/本名:猪木寛至(いのき・かんじ)略歴
日本の政治家。参議院議員。昭和18年~(1943年~ )生まれ。銀神奈川県横浜市鶴見区出身。元プロレスラー、実業家。新日本プロレス創業や異種格闘技戦の実現などにより、日本のプロレス・格闘技界に最も大きな影響を与えたひとり。2010年WWE殿堂入り
山鹿流兵法の歴史・沿革


■山鹿流(やまがりゅう)は、山鹿素行(やまが・そこう)によって著された兵学(兵法)の流派


■林羅山に入門して漢学教育を受けた山鹿素行は、仏教、道教の思想にも通じ、神道和学の故実を踏まえて甲州流軍学の小幡景憲、北条流の祖・北条氏長の門下として軍学の修得をした


■朱子学を批判したことから播磨国赤穂藩へお預けの身となり、そこで赤穂藩士の教育を行う。赤穂藩国家老の大石良雄も門弟の一人であり、良雄が活躍した元禄赤穂事件以後、山鹿流には「実戦的な軍学」という評判が立つことになった


■山鹿素行の兵学直門は140名くらい。直系、血縁者で山鹿流を受け継いだのは、平戸藩の山鹿男系と、津軽藩の山鹿女系である


■山鹿素行の兵学を講受した諸大名には、津軽信政 、津軽信寿 、戸田忠真 、松浦鎮信 、松浦長祐 、松浦織部昌 、大村守純 、稲垣重昭 、小笠原長祐 、小笠原長重 、本多忠真、浅野長矩らがいる


■山鹿素行の教えは、後世の吉田松陰にも大きな影響を与えた


■山鹿素行は1685年に死去。墓所は東京都新宿区弁天町1番地の曹洞宗宗参寺にある


■山鹿素行(やまが・そこう)略歴
陸奥国会津(福島県会津若松市)にて浪人・山鹿貞以の子として生まれる。 寛永5年(1628年)に6歳で江戸に出る。寛永7年(1630年)、9歳のとき大学頭を務めていた林羅山の門下に入り朱子学を学び、15歳からは小幡景憲、北条氏長の下で軍学を、廣田坦斎らに神道を、それ以外にも歌学など様々な学問を学んだ
サイバーダインの歴史・沿革


■サイバーダイン株式会社は、つくば市学園南二丁目にあるサイバニクス技術に関連する研究開発、製造、販売、保守管理を行っている企業である


■HALを製造していることで知られる。これは、装着することによって身体機能を拡張・増幅・補助することができる世界初のサイボーグ型ロボットであり、製品としてレンタル方式およびリース方式で販売されている


■2004年に筑波大学教授の山海嘉之(さんかい・よしゆき)によって設立された


沿革
■2004年6月 会社設立


■2007年6月 筑波大学などとともに、HALの開発で経済産業大臣賞受賞


■2008年7月 大和ハウス工業とHALの販売につき代理店契約締結


■2009年1月 HAL福祉用の初期モデルを製造販売開始


■2013年7月 富士重工業よりクリーンロボット事業を譲受


■2014年3月 東京証券取引所マザーズ上場


概要
■CYBERDYNE株式会社(サイバーダイン株式会社)
設立年月日:平成16年6月24日
創業者:山海嘉之
資本金:165億11百万円 (2014年12月12日現在)
上場市場:東京証券取引所マザーズ
上場日:2014年3月26日
事業内容:医療福祉機器および医療福祉システムの研究開発等
本社所在地:茨城県つくば市学園南2丁目2番地1
福島事業所:福島県郡山市待池台1-12
岡山事業所: 岡山県岡山市北区芳賀5303


創業者
■山海嘉之(さんかい・よしゆき)経歴(プロフィール)
日本の工学者、経営者。筑波大学教授、筑波大学サイバニクス研究センター長、日本栓子検出、治療学会会長、日本ロボット学会理事などを歴任。サイバーダイン株式会社の創業者。1958年、岡山県で生まれる。1987年に筑波大学大学院工学研究科(システム制御工学分野)博士課程を修了
東海メディカルプロダクツの歴史・沿革


■株式会社東海メディカルプロダクツは、愛知県春日井市に本社を置く医療機器メーカー


■日本初のIABPバルーンカテーテルを開発、医療用カテーテルを中心に製造している


■筋梗塞や狭心症などの患者の心臓の動きをサポートするIABPバルーンカテーテルで国産シェアナンバーワン


■「一人でも多くの生命を救いたい」を経営理念に掲げ、創業以来医療機器の製品開発をしている


沿革
■1981年 筒井宣政が東海メディカルプロダクツ設立


■1986年 各種医療機器の承認 IABP完成


■1992年 第4回中小企業優秀新技術新製品賞 受賞


■1996年 日本バイオマテリアル学会1996年度学会賞 受賞


■2005年 25周年記念シンポジウム演奏会


■2013年 筒井宣政 代表取締役社長退任(会長)、筒井康弘 代表取締役社長就任


概要
■株式会社東海メディカルプロダクツ
創業:1981年10月
資本金:8475万円
業務内容:医療機器の開発、製造および販売
関連会社:東海高分子化学株式会社、株式会社ヴァーユ
春日井本社:愛知県春日井市田楽町字更屋敷1485番地
和光堂の歴史・沿革


■和光堂株式会社は、国内ベビーフードの老舗、ならびに業界最大手であり、その他ベビー用品関連を数多く手掛けるメーカーである


■和光堂の歴史は、日本の小児科の歩みとともに始まった


■明治39年(1906年)に和光堂の前身にあたる和光堂薬局が東京の神田に誕生


■この和光堂薬局を設立したのは、東京帝国大学(現・東京大学)に初めて小児科を設けた弘田長(つかさ)博士である


■弘田博士は、和光堂の生みの親であり、日本の小児科の生みの親でもある


■弘田博士は国内最初の粉ミルクを作った人物でもある


■1918年 株式会社和光堂に組織変更


■1953年 和光堂(株)設立 資本金3,000万円


■1961年 和光堂(株)は東京証券取引所第2部株式上場


■2006年 アサヒビールグループ入り


■2009年 和光堂西新宿ビル、東京都西新宿に新築落成


■2014年 生産機能の効率化により静岡工場を閉鎖


■和光堂株式会社
創業:明治39年5月
設立:昭和28年10月
資本金:29億1千8百万円
従業員数:514人(男319 女195)


■本社
東京都千代田区神田司町2-14-3


■東京支店
東京都新宿区西新宿5-25-11和光堂西新宿ビル3F


■名古屋支店
名古屋市千種区今池2-7-24


■大阪支店
大阪府吹田市広芝町16-1


■福岡支店
福岡市南区清水2-15-18


■栃木工場
栃木県さくら市富野岡286


■研究所
東京都調布市若葉町2-2
株式会社草太郎の歴史・沿革


■株式会社草太郎は北海道室蘭市の菓子製造業である


■室蘭銘菓「草太郎」で知られる


■「草太郎」は航空会社の機内菓子に採用されるなど、室蘭を代表する菓子である


■1950年に創業し、ヨモギを使用したまんじゅう「草太郎」を看板商品とした


■2001年3月期には4億8600万円の売上高を上げた


■しかし、同業他社との競合などの影響で2014年3月期には2億5700万円の売上高へと減少


■負債総額は約3億1300万円(2014年3月期時点)あり、2015年1月4日付で事業を停止し、破産申請の準備に入った


■株式会社草太郎
創業:1950年
資本金:27,000,000円
代表者名:大場一雄
主な事業内容:菓子製造業
本社所在地:北海道室蘭市日の出町3丁目7番6号


■草太郎
室蘭生まれの草太郎はヨモギの風味豊かな銘菓である。五月の頃、洞爺湖周辺に育つヨモギの若葉をひとつひとつ手摘みする。頑固なまでに旨味と素朴さを追求し、ふんわりとした和紙のように優しい生地に仕上げている。甘さを控え、しっとりとした北海道産小豆の餡と、ヨモギの鮮やかな色と香りがさわやかな北の大地を感じさせる
加賀屋の歴史・沿革


■株式会社加賀屋(かがや)は、石川県七尾市和倉温泉に本社を置く、旅館業を営む企業。および同社が経営する温泉旅館である


■和倉温泉の筆頭旅館の地位を占め地上20階、約1,450名の収容人員を持つ全国最大級の旅館


■「加賀屋」をはじめ「あえの風」「虹と海」「金沢茶屋」の4旅館を運営するほか、レストラン9店舗、洋菓子販売「ル・ミュゼ・ドゥ・アッシュ」2店舗を展開する。グループの従業員は約800人


■2013年3月期の売上高は約120億円


■屋号は、創業者の小田與吉郎が加賀国津幡(現在の石川県河北郡津幡町)の出身であることに由来する


■「プロが選ぶ日本のホテル・旅館100選」(旅行新聞社主催)で三十三年連続で総合一位


沿革
■1906年(明治39年)9月10日、小田與吉郎が「加賀屋」創業


■1980年 プロが選ぶ日本のホテル・旅館100選で総合1位を初受賞(以後32年連続受賞)


■2006年9月10日 創業100周年記念式典


■2010年12月18日 台湾北投温泉に「日勝生加賀屋」開業


■小田孝信(おだ・たかのぶ)略歴
石川県の老舗旅館「加賀谷」の4代目社長。慶応大商学部卒業後、1996年に日本交通公社(現JTB)に入社。家業を継ぐため68年に加賀屋に移り、専務を経て2000年4月に4代目社長に就任。座右の銘は「笑顔で気働き」。趣味は旅行とネクタイ収集。七尾商工会議所副会頭、和倉温泉観光協会長
明倫館の歴史・沿革


■明倫館(めいりんかん)は、長州藩の藩校。水戸藩の弘道館、岡山藩の閑谷黌(しずたにがっこう)と並び、日本三大学府の一つと称された


■有能な人材を育成することを目的として、毛利家家臣の子弟教育のために造られた


■明倫館は西国一といわれた規模を誇った


■1万5000坪という広大な敷地内には、聖廟である宣聖殿を中心に、学者、書庫、寮のほか、剣術や槍術の周蓮杖や水泳のための水練場、3000坪もの練兵場があったという


■一方の松下村塾では、杉家の廃屋を修繕して作られた18畳ほどの講堂室であった


■明倫館は1718年(享保3年)、萩藩6代藩主毛利吉元が萩城三の丸追廻し筋に創建(敷地940坪)


■1849年(嘉永2年)には、14代藩主毛利敬親が藩政改革に伴い萩城下江向へ移転(敷地15,184坪。建物総坪数11,328坪、練兵場3,020坪)


■図書館としての機能も持っていた


■明倫館の主な出身者
・井上馨
・桂小五郎
・吉田松陰
・高杉晋作
・長井雅楽
・国重正文


■明倫館が幕末の長州藩の中で果たした役割は大きい。現在は、明倫小学校内に剣、槍術場の有備館と水泳や水中騎馬の練習が行われた水練池、観徳門などが残っている
隠密同心の歴史


■隠密同心は江戸時代に「寛政の改革」を行ったことで知られ松平定信(陸奥白河藩第3代藩主)が極秘に作った組織である


■隠密同心は松平定信の命を受けた、旗本寄合席・内藤勘解由が隠密支配となって統括した


■闇に潜む悪を処断するには、太平の世に慣れたひ弱な武士よりも、社会の裏事情に精通した人間の方が適任だと考え、十文字小弥太を隠密同心のリーダーに抜擢した


■十文字小弥太
隠密同心筆頭格。表の顔は珊次郎と名乗る遊び人。江戸の打ち壊し騒動の折りに、町人たちを守るため、同心・秋草新十郎らと戦って捕縛され、牢に入る。義侠心の強さを内藤勘解由に見込まれて、隠密同心となった


■メンバーは、普段は町人として生活しており、江戸町内の地蔵の鉢巻きの合図に集結して、指令を受ける


■皆、証の懐剣を所持しており、ここぞという時に、悪人に見せつける


■松平定信(まつだいら・さだのぶ)略歴
【1759年~1829年】江戸時代中期の大名、老中。陸奥白河藩第3代藩主。定綱系久松松平家第9代当主。白河藩主としては、江戸時代後期の名君の1人として高く評価されている。江戸幕府第8代将軍・徳川吉宗の孫に当たる
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