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海防臆測の歴史・沿革


■海防臆測(かいぼうおくそく)は江戸後期の儒学者、古賀侗庵(こが・どうあん)が書いた書物である


■頑なに鎖国を維持する幕府の対外政策を批判し、外国と渡り合うために海外への進出、貿易を行なうべきだとする「海外進出論」を主張したもので、海防臆測は幕府の政策を否定し内乱を招くものとして、「禁書」とされた


■「海防臆測」は後世、山田亦介(長州藩士。松陰の師)や吉田松陰(教育者)、小田村伊之助(初代群馬県令(知事)、貴族院議員)らに影響を与えた


■山田亦介は「海防憶測」を出版した罪で隠居となり、知行も削減されている


■山田亦介(やまだ・またすけ)略歴
1809年~1865年(文化5年~元治元年)江戸時代末期の武士・長州藩士。大組頭山田家の嫡男で、天保期に藩政改革を指導した村田清風の甥にあたる。甥に初代司法大臣、山田顕義がいる。海防や軍艦製造に関わり、兵制改革に当たって西洋式を採用した。また、1845年(弘化2年)吉田松陰(寅次郎、当時15歳)に長沼流兵学を教授し、世界の大勢に着目することを教えた師でもあった。1852年(嘉永5年)、古賀侗庵の『海防憶測』を出版した罪で隠居となり、知行も削減される。57歳で処刑された


■吉田松陰(よしだ・しょういん)略歴
【1830年~1859年(文政13年~安政6年)】長州藩士、思想家、教育者、兵学者。萩城下松本村で長州藩士・杉百合之助の次男として生まれる。1854年、ペリー2度目の来航の際、長州藩足軽・金子重之助とともに密航計画を企てるも失敗、萩の野山獄に幽囚される。1855年、生家で預かりの身となるが、1857年、叔父の玉木文之進が開いていた私塾・松下村塾を引き受けて主宰者となり、高杉晋作をはじめ久坂玄瑞、伊藤博文、山県有朋、吉田稔麿、前原一誠など、維新の指導者となる人材を教え育てる。最期は江戸伝馬町の獄において斬首刑に処される。29歳で没


■小田村伊之助略歴
【1829年~1912年】日本の官僚、政治家。吉田松陰とは深い仲であり、松陰の妹2人を妻とした。1829年4月18日、長門国萩魚棚沖町で生まれる。初代群馬県令(知事)、高等法院陪席裁判官・貴族院議員・宮中顧問官等を歴任した。錦鶏間祗候正二位勲一等男爵。1912年8月14日没。享年83
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