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株式会社ワールドの歴史・沿革


■株式会社ワールドは、兵庫県神戸市中央区港島中町に本社を置く大手アパレルメーカーである


■神戸市の零細アパレルメーカーである光商会(現:株式会社エンパイアー)の社員(当時)である畑崎廣敏と木口衛の2人が光商会を退社後1959年に独立してワールドを創立


■木口が社長、畑崎が専務となり二人三脚で大手アパレルメーカーに成長させた


沿革
■1959年 資本金200万円にて神戸市生田区(現・中央区)にニット婦人セーターの卸売業(株)ワールドを設立


■設立当初より、世界に進出することを意識してワールドという社名にした


■1965年 事業発展に伴い、東京都台東区に東京店を設置


■1968年 神戸市葺合区(現・中央区)に本社ビルを竣工し、本社を移転


■1981年 売上高1,000億円を達成


■2002年 売上高2,000億円を達成


■2007年 売上高3,000億円を達成


■2010年 サッカー日本女子代表「なでしこジャパン」のオフィシャルスーツを提供


■2014年『下町パリジャンの日常生活』をコンセプトに、ニューファミリー層に向けた新ストア「ル ティロワ ドゥ ドレステリア」を出店


■概要
社名:株式会社ワールド
設立:1959年1月13日
事業内容:婦人・紳士・子供服等の企画販売
従業員:1,890名(男性1,070名、女性820名)(2014年3月末現在)
本社所在地:神戸市中央区港島中町6丁目8番1


■売上高
[連結]3,173億37百万円(2014年3月期)
[単独]2,815億55百万円(2014年3月期)


■経常利益
[連結]27億40百万円(2014年3月期)
[単独]44億70百万円(2014年3月期)


■木口衛(きぐち・まもる)略歴・経歴(プロフィール)
【1923年~2006年】神戸市を拠点とするアパレルメーカーワールドの創業者。岡山県総社市出身。光商会の後輩であった畑崎廣敏との二人三脚で、裸一貫からワールドを起こし、同社を有数の大企業に育て上げた


■畑崎廣敏(はたさき・ひろとし)略歴・経歴(プロフィール)
日本の実業家。アパレル大手、ワールドの創業者の一人。1936年(昭和11年)兵庫県淡路島で生まれる。兵庫県立洲本実業高等学校を卒業。神戸市の株式会社光商会(現在の株式会社エンパイヤー)へ就職。光商会での先輩であった木口衛と共に株式会社ワールドを創立した
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国際カジノ研究所の歴史・沿革


■株式会社国際カジノ研究所はカジノ、および宿泊、飲食、ショッピングセンター、その他各種アミューズメント施設に関する調査、およびコンサルティング事業を行う会社である


■設立:2011年1月


■設立者:木曽崇(代表者)


■所在地:東京都千代田区岩本町1-3-1


業務内容
■カジノ、および宿泊、飲食、ショッピングセンター、その他各種アミューズメント施設に関する調査、およびコンサルティング事業

■国外で運営されているカジノ、および宿泊、飲食、ショッピングセンター、その他各種アミューズメント施設の所有、および運営

■前各号に付帯又は関連する一切の事業


■木曽崇(きそ・たかし)略歴・経歴(プロフィール)
株式会社国際カジノ研究所の設立者で所長。株式会社エンタテインメントビジネス総合研究所(客員研究員)。日本で数少ないカジノの専門研究者である。ネバダ大学ラスベガス校ホテル経営学部首席卒業(カジノ経営学専攻)。米国大手カジノ事業者での会計監査職を経て、帰国。2004年 エンタテインメントビジネス総合研究所へ入社。2005年には早稲田大学アミューズメント総合研究所へ一部出向。2011年に国際カジノ研究所を設立し、所長に就任
ギャンブル依存症問題を考える会の歴史・沿革


■「一般社団法人ギャンブル依存症問題を考える会」はギャンブル依存症問題を抱えた人々を救うために2014年2月6日に設立された


■設立者:田中紀子


■事務局:東京都中央区新川1-21-1 茅場町タワーレジデンス1909号室


■理事
代表理事 田中紀子
理事 佐藤拓(精神科医)
理事 山本大地(株式会社ネセサー代表取締役社長)
監事 佐藤彰洋(佐藤彰洋税理士事務所・税理士)


■支部
東北地区 青森 福島
関東地区 群馬  栃木 茨城 千葉 埼玉 東京 神奈川
中部地区 新潟 富山 長野 山梨 愛知
近畿地区 三重 大阪 京都 奈良 兵庫
中国地区 広島
九州地区 福岡 鹿児島 大分
沖縄地区 沖縄


■設立の経緯
夫の度重なるギャンブルによる借金の問題で、ギャンブル依存症という病気があることを知りました。夢中になって、なんとかしようとセルフヘルプグループに通ったり、相談機関を訪れるうちに、実は、私の父も祖父も、ギャンブル依存症だったのだ、自分の生まれ育った環境におきていた、不幸な出来事の根源を突き止めることができました。その後、私たち夫婦は依存症者とその家族に向けたプログラムを受けることになり、2人で回復の道
をともに歩き、今でも円満に暮らしています


■そして同じような問題を抱えた人々を救うために「ギャンブル依存症問題を考える会」を2014年に設立する


■田中紀子(たなか・のりこ)略歴・経歴(プロフィール)
一般社団法人「ギャンブル依存症問題を考える会」の設立者で代表理事を務める。ギャンブル依存に関する啓発活動を全国で精力的に行っている。1964年生まれ
久光製薬株式会社の歴史・沿革


■久光製薬株式会社は 佐賀県鳥栖市に本社を置く日本の医薬品メーカーである


■消炎鎮痛剤のロングセラーとして有名な「サロンパス」でその名を知られている


■女子バレーボール部「久光製薬スプリングス」を持ち、ゴルフの「サロンパスワールドレディスゴルフトーナメント」を協賛するなどスポーツ活動も積極的に行っている


■歴代社長
初代:久光仁平(1847年に創業)
2代:久光与市(仁平の長男)
3代:久光三郎(中冨三郎。与市の三男)
4代:中冨正義(三郎の子)
5代:中冨博隆(5代目社長。正義の長男。30数年社長を務める)
6代:中冨一栄(6代目社長。博隆の長男)


沿革
■1847年に創業者の久光仁平が丸薬製造などを行う「小松屋」を創業したのが久光製薬の始まりである


■代官所の医者に出会い、製法修得に成功。婦人病の薬「安妙湯」や、「健胃功勝丹」、「小児丸」らの製造、販売を開始


■久光与市が父親であり創業者の久光仁平より家業を譲り受ける。当時の屋号を「小松屋」から「久光常英堂」と改め、新しい薬の開発に力を注ぎ、健胃清涼剤「奇神丹(きしんたん)」を発売する

■日清戦争の際には軍用薬として指定され業績を大いに伸ばす


■この経験は配置売薬に加え今日の製薬メーカーとしての販路を築き、息子の三郎(後の中冨三郎)に将来を託す


■1903年 久光与市の息子の中冨三郎(旧姓は久光三郎)が久光兄弟合名会社を設立。27歳で社長に就任


■「奇神丹(きしんたん)」(健胃清涼剤)「朝日万金膏(まんきんこう)」(鎮痛消炎貼付剤)などの発売で国内、海外にも販路を伸ばし事業を拡大


■1934年にはのちに国民的な貼り薬となるサロンパスを新発売し、現・久光製薬の基礎を築く


■中冨三郎の子・中冨正義が「久光兄弟株式会社」設立。1965年に「久光製薬」に改称


■1962年 東京証券取引所2部・福岡証券取引所上場


■1963年「エアーサロンパス」を発売


■1972年 名古屋証券取引所2部上場


■1973年 東京証券取引所、大阪証券取引所、名古屋証券取引所各1部指定替え


■中冨正義の子・中冨博隆が1981年5月に社長に就任。腰痛などに効く鎮痛消炎剤「モーラステープ」をヒットさせるなど、貼り薬事業の拡大に貢献


■2013年 東京本社を丸の内ビルディングへ移転


■「ネオキシ®テープ」発売


■「アブストラル®舌下錠」発売


■中冨博隆の子・中冨一栄が2015年5月21日 6代目社長に就任
御土居の歴史・概要


■御土居(おどい)は豊臣秀吉によって作られた京都を囲む土塁である


■外側の堀とあわせて御土居堀と呼ぶ場合もある


■聚楽第、寺町、天正の地割とともに秀吉による京都改造事業の一つである


■一部が京都市内に現存し、史跡に指定されている


■秀吉は、あい続く戦乱により不分明となっていた洛中(京都)の境を、御土居の築造により新たに定めようとしたという伝えがあり、御土居の内部を洛中、外部を洛外と呼ぶことにしたという


■当時の都人の間でこの人為的な洛中・洛外の区画は不評であった


■秀吉が没して間もなく政権が徳川に移ると、御土居の外の鴨川河川敷に高瀬川が開削されてその畔には商家が立ち並んだから「洛中」は実質的に鴨川河畔まで広がった


■西部では洛外に通ずる出入り口が新たに20か所以上設けられて、洛中と洛外の農村の結びつきが強まり「町続き町」が形成されたから、ここでも実質的な「洛中」の拡大が見られた


■豊臣秀吉(とよとみ・ひでよし)略歴
1537年~1598年(天文6年~慶長3年)戦国時代から安土桃山時代にかけての武将・天下人・関白・太閤。尾張出身の戦国武将。農家出身ながら、織田信長に仕え、頭角を現す。1582年(天正10年)、本能寺の変で信長が横死にすると明智光秀を討ち、その後の後継者争いに勝利する。1590年(天正18年)、北条氏を下して事実上の天下統一を達成した。 62歳で没


■徳川家康(とくがわ・いえやす)略歴
1542年~1616年(天文11年~元和2年)江戸幕府初代将軍。岡崎城主松平広忠の子供として生まれるが、6歳のときより尾張の織田、駿河の今川で人質生活を送る。桶狭間の戦い以後、自立。信長と同盟、大大名になる。信長の死後、秀吉に臣従。秀吉の死後、関ヶ原の戦に勝利し3年後に幕府を開いた。大坂夏の陣で豊臣家を滅ぼす。75歳で没
新京極通の歴史・概要


■新京極通(しんきょうごくどおり)は、京都市中京区の南北の通りの一つ。三条通から四条通までの比較的短い通りである


■1872年に京都府参事槇村正直によって作られた比較的新しい通りである


■かつては広大な寺域を誇った時宗十二派の四条派の金蓮寺(こんれんじ)が、18世紀末から寺域の切り売りをはじめ、明治以前に売却地に料亭・飲食店・商店・見世物小屋が建っていた


■一つ隣の寺町通(寺町京極)に集まる寺院の境内が、縁日の舞台として利用されるようになり、人が多く集まったため、各寺院の境内を整理し、寺町通のすぐ東側に新しく道路を造ったのが新京極通のはじまりである


■明治の中頃には見世物小屋や芝居小屋が建ち並び、現在の繁華街の原型ができた


■槇村 正直(まきむら・まさなお)略歴・経歴(プロフィール)
【1834年~1896年】日本の官僚、政治家。貴族院議員、男爵。幼名は半九郎。1875年7月、京都府知事となり東京奠都後の京都復興に尽力した。1881年1月、元老院議官となる。1887年5月、男爵を授爵し華族となる。1890年2月から行政裁判所長官となり、また同年7月に貴族院議員(男爵議員)となり、ともに死去するまで務めた


■時宗十二派(じしゅうじゅうには)は、時宗として総括される念仏勧進聖系の12の派である。時宗は、一般に一遍智真を開祖とするが、その他にも遊行、踊り念仏、念仏札の賦算等をする念仏勧進聖である「時衆」は、多数存在した


■金蓮寺(こんれんじ)は、京都市北区にある時宗の寺である。山号は錦綾山。本尊は阿弥陀如来


■寺町通(てらまちどおり)は京都市の南北の通りの一つ。北は紫明通から南は五条通まで。途中の三条通で以北に比べ以南は西に少しずれており、真っ直ぐではないのが特徴
禁門の変の歴史・概要


■禁門の変(きんもんのへん)は、元治元年7月19日(1864年8月20日)に、京都で起きた武力衝突事件のことをいう


■蛤御門の変(はまぐりごもんのへん)、元治の変(げんじのへん)、元治甲子の変とも呼ばれる


■「禁門の変」あるいは「蛤御門の変」の名称は、激戦地が京都御所の御門周辺であったことによる。蛤御門は現在の京都御苑の西側に位置し、今も門の梁には弾痕が残る


経緯
■元治元年(1864年)7月19日。京都で勢力の挽回を図る長州藩と、御所を守る幕府軍の間で激しい戦いが繰り広げられた


■前年8月18日の政変で京都政界を追放された長州藩であったが、池田屋事件が火に油を注ぐ結果となり、ついに武力行使に至った


■兵力では圧倒的に劣っていた長州軍であったが、尊攘派浪士の猛攻は凄まじいものであった。しかし、薩摩藩・会津藩を主力とする大軍の幕府軍には力及ばず、長州藩は敗走した


■この戦いは禁門の変と呼ばれているが、中でも激戦区だったのは西側の蛤御門(はまぐりごもん)であったため、蛤御門の変とも呼ばれている


禁門の変に関わった人物
■久坂玄瑞(くさか・げんずい)略歴・経歴(プロフィール)
【天保11年~元治元年(1840年~1864年)】幕末の長州藩士。萩藩医・久坂良迪の次男として生まれる。松下村塾で英才を知られ、吉田松陰の妹と結婚。藩を超えた尊王攘夷運動の中心人物として、国元と江戸・京都で活動する。イギリス公使館焼き打ち、外国船砲撃事件など過激な運動に参加し倒幕に動くが禁門の変に敗れ自刃。享年25


■高杉晋作(たかすぎ・しんさく)略歴・経歴(プロフィール)
【1839年~1867年(天保10年~ 慶應3年)】幕末期の長州出身の武士。吉田松陰の松下村塾に入門。尊王攘夷運動に身を投じ、下関防衛のため奇兵隊を創設、藩の倒幕運動を主導した。慶応2年(1866年)には第2次長州征伐に乗り出した幕府軍との戦いを指揮したが、翌年肺結核で没した。享年29歳


■桂小五郎(かつら・こごろう)略歴・経歴(プロフィール)
1833年~1877年(天保4年~明治10年)幕末から明治時代初期にかけての武士、政治家。維新三傑の一人。桂小五郎と称し、のちに木戸と改姓。尊攘運動に参加、薩長同盟を結んで倒幕運動を指導。維新政府の中心となり「五箇条の御誓文」起草に参画、版籍奉還・廃藩置県を推進した。征韓論・征台論に反対。享年45歳
琵琶湖疏水の歴史・概要


■琵琶湖疏水(びわこそすい)とは、琵琶湖の湖水を京都市へ流すために作られた水路(疏水)である


■琵琶湖疏水は、第1疏水(1890年に完成)と第2疏水(1912年に完成)を総称したものである


■京都市は禁門の変で市中の大半が焼け、明治維新と東京奠都(とうきょうてんと)に伴い人口が減少し産業も衰退したため、第3代京都府知事の北垣国道が灌漑、上水道、水運、水車の動力を目的とした琵琶湖疏水を計画した


■そして主任技術者として、工部大学校を卒業したばかりの田邉朔郎を任じ設計監督にあたらせた


沿革
■1881年(明治14年)北垣国道が京都府知事に就任、琵琶湖疏水の検討をはじめる


■第1疏水を1885年(明治18年)に着工


■1890年(明治23年)に大津市三保ヶ崎から鴨川合流点までと、蹴上から分岐する疏水分線とが完成した。4月9日には明治天皇・昭憲皇太后の御臨幸を仰ぎ竣工式を挙行している


■1912年(明治45年)第2疏水が完成


■1999年(平成11年)12月 第2疏水連絡トンネル竣工


■現在は琵琶湖疏水を通して年間2億トンの琵琶湖の湖水を得ていて、京都市から『疏水感謝金』として年間2億2千万円が滋賀県へ支払われている


■第3代京都府知事
北垣国道(きたがき・くにみち)略歴・経歴(プロフィール)
【1836年~1916年】幕末期の志士、明治時代の官僚、政治家。高知県令(第4代)、徳島県令(第7・8代)、京都府知事(第3代)、北海道庁長官(第4代)、貴族院議員(勅選)、枢密顧問官を歴任した


■主任技術者
田辺朔郎(たなべ・さくろう)略歴・経歴(プロフィール)
【1861年~1944年】日本の土木工学者。琵琶湖疏水や日本初の水力発電所の建設、関門海底トンネルの提言を行った。北海道の狩勝峠の名づけを行った。高島秋帆門下の洋式砲術家である田辺孫次郎の長男として江戸に生まれる。工部大学校卒業
ニッカウイスキーの歴史・沿革


■ニッカウヰスキー株式会社(現代仮名遣い:ニッカウイスキー)は、日本の洋酒メーカーである


■1934年、北海道余市郡余市町に前身である「大日本果汁株式会社」が設立され、同社の略称「日果(にっか)」の片仮名書きが現在のブランド名になっている


■2001年、筆頭株主のアサヒビール株式会社が全株式を取得して完全子会社化された


■ニッカウヰスキーが製造する商品の販売はアサヒビールが行なっている


概要
■ニッカウヰスキー株式会社
設立1934年(昭和9年)
従業員数:296名(平成25年12月31日現在)
資本金:100百万円(平成25年12月31日現在)
本社所在地:東京都港区南青山5丁目4番31号


■事業内容
・ウイスキー、ブランデー、スピリッツ、リキュール類、シードル、焼酎等の製造


沿革
■1934年7月 大阪市の芝蘭社家政学園にて大日本果汁株式会社設立総会開催


■1934年10月 北海道余市郡余市町に北海道工場(余市蒸溜所)を創業。ウイスキーの貯蔵を開始


■1940年 ニッカウヰスキー販売開始


■1954年 大株主の加賀正太郎が朝日麦酒株式会社(後のアサヒビール株式会社)に持ち株を売却。同社の傘下に入る


■1959年 兵庫県西宮市に西宮工場を創業


■1984年 シングルモルト北海道販売開始。国産初のシングルモルトウイスキー


■2011年 アサヒビール株式会社が持株会社移転によりアサヒグループホールディングス株式会社となり、新法人となったアサヒビール株式会社の機能子会社となる


■歴代社長
竹鶴政孝(創業者。1934年に設立。1943年に社長就任)
竹鶴威(1990年、1992年-1994年、1996年-1998年。3度社長を務める)
山下弘(2005年に社長就任)
中川圭一(現社長)



竹鶴政孝(たけつる・まさたか)略歴・経歴(プロフィール)
1894年~1979年(明治27年~昭和54年)ニッカウヰスキー創業者。広島県竹原市生まれ。大正5年、大阪高等工業卒。摂津酒造に入社後、英スコットランドでウイスキーづくり研究に従事。帰国後、寿屋(現・サントリー)に入社。昭和9年、北海道余市町で大日本果汁(現・ニッカウヰスキー)創業。84歳で没


竹鶴威(たけつる・たけし)略歴・略歴・経歴(プロフィール)
【1924年~2014年】日本のウイスキー製造者、技術者、会社経営者。ニッカウヰスキー社長、会長を歴任。1924年3月6日生まれ。北海道大学工学部応用化学科卒業。母・延代の弟でニッカウヰスキー創業者の竹鶴政孝の養子になる。現・ニッカウヰスキーに入社。1985年に同社社長に就任した。2014年12月17日、老衰のため自宅で死去した。享年90


山下弘(やました・ ひろし)略歴・略歴・経歴(プロフィール)
日本の経営者。ニッカウヰスキーの代表取締役社長を務めた。1947年生まれ。北海道函館市出身。北海道大学農学部卒業。1970年ニッカウヰスキー入社。アサヒビール酒類事業本部副本部長などを歴任。2002年アサヒビール執行役員。2005年ニッカウヰスキー株式会社代表取締役社長就任


竹鶴孝太郎(たけつる・こうたろう)略歴・経歴(プロフィール)
1953年、竹鶴政孝(ニッカウヰスキー創業者)・リタ夫妻の子息・威・歌子夫妻の長男として、北海道余市町で生まれる。ニッカウヰスキーに約20年間勤務を経て、株式会社アマナ事業開発室室長を歴任
トモエ商事株式会社の歴史・沿革


■トモエ商事株式会社は紳士靴の専門企業として培ってきたノウハウを生かし、グローバルな視点でビジネスに取り組んでいる。紳士靴業界のリーディングカンパニーである


■フォーマルシューズ、ビジネスシューズからウォーキングシューズ、アウトシューズまで様々なジャンルの紳士靴を揃え、国産品はもとより海外製品を含めたラインアップを展開している


■全国の百貨店への卸売りを基盤として、国内外で豊富なネットワークを築き上げているのが強みである


沿革
■昭和23年長谷川三郎が東京都中央区銀座にて創業


■昭和25年 株式会社に組織変更


■昭和29年 東京都台東区浅草6-18-6に移転


■昭和59年 創業者の長谷川三郎が勲五等瑞宝章叙勲


■平成14年 2代目の長谷川宏が藍綬褒章叙勲


■概要
本社:東京都台東区浅草6-18-6
資本金:30000000円
代表者:長谷川靖雄


■主な取引先
株式会社高島屋
株式会社東急百貨店
株式会社東武百貨店
株式会社大丸松坂屋百貨店
株式会社小田急百貨店
株式会社三越伊勢丹百貨店
株式会社そごう・西武
株式会社阪急阪神百貨店
株式会社近鉄百貨店
株式会社京王百貨店
など
品川工業所の歴史・沿革


■株式会社品川工業所は、奈良県磯城郡田原本町に本社を置く、機械製造会社である


■自動たまご焼き機をはじめとする製菓用機械・食品加工用機械を中心に、理化学用混合攪拌機・造粒機などの設計・開発・製造・販売までを手がける


■元々は餅つき機の開発・製造会社として1910年に創業。初代社長は品川常市


■1956年12月、株式会社に改組、品川玄太郎が代表取締役に就任。餅つき機の販売で業績を伸ばしたが、昭和40年代になると、洋菓子の普及によって和菓子の需要が減退、業績も伸び悩んだ


■このため、新しい市場として、スーパーマーケットなどの普及で広がりはじめた惣菜用の製造設備に着目し、自動卵焼きの開発にとりかかった


沿革
■明治43年9月 品川常市が品川工業所を創立


■昭和 3年 全国菓子大博覧会に於て 一等賞金牌受賞


■昭和6 年 全国菓子大博覧会に於て 一等賞金牌受賞


■昭和10 年 全国菓子大博覧会に於て 一等賞金牌受賞


■昭和28年9月 第一回全国菓子工芸展に於て 厚生大臣賞受賞


■昭和31年12月 株式会社に改組、品川玄太郎代表取締役に就任


■昭和52年11月 代表取締役社長 財津永三就任


■昭和59年9月 代表取締役社長 品川士郎就任


■平成9年11月 品川ツインサーボミキサー開発


■平成22年11月「なら発オンリーワン製品技術企業」に認定


■平成23年11月「2011年度NBK大賞 奈良ブロック賞」受賞
ジャーマンウィングス社の歴史・沿革


■ジャーマンウィングス社は、ドイツ航空大手ルフトハンザ系の格安航空会社(LCC)である


■1997年にユーロウィングスの社名で創業された


■2002年にジャーマンウィングスに改名し、価格の安さを売りに事業を拡大させる


■ドイツで人気の航空会社に成長した


■ルフトハンザドイツ航空は、ドイツのケルンに本拠を置くドイツ最大の国際航空会社である


■ドイツのいわゆる「フラッグ・キャリア」とされているが、現在はドイツ国外の航空会社も多数傘下に置いている


■2004年8月時点で世界89カ国327都市に就航、旅客数はエールフランス‐KLMに次ぐ欧州第2位、世界でも十指に数えられる


■綿密な機体整備は高く評価されている。ニューズウィーク誌の「最も安全な航空会社ランキング」の第1位に選出されている


■同社中古機の人気は高く、1980年代のピープルエキスプレスなど、ルフトハンザの中古機材を用いて就航している格安航空会社も多い
トプカプ宮殿の歴史・概要


■トプカプ宮殿は、15世紀中頃から19世紀中頃までオスマン帝国の君主が居住した宮殿である


■イスタンブル旧市街のある半島の先端部分、三方をボスポラス海峡とマルマラ海、金角湾に囲まれた丘に位置する


■トプカプ宮殿は、大きな建物を持たず比較的小さな建物と部屋が連なる


■トルコ人の中央アジアの遊牧民的な伝統に基づいた宮殿である


■トルコ共和国は、1924年にトプカプ宮殿を博物館とし、修復して一般の人々の見学に開放している


■メフメト2世が、1460年代頃造営を開始し、1478年頃までに完成した


■メフメト2世略歴
【1432年~1481年】オスマン帝国の第7代スルタン。コンスタンティノープル(イスタンブル)を攻略してビザンツ帝国(東ローマ帝国)を滅ぼし、オスマン帝国の版図を大幅に広げる。30年以上に渡る征服事業から、「征服者(ファーティフ Fatih)」と呼ばれた
聖マルコの鐘楼の歴史・沿革


■聖(サン)マルコの鐘楼(しょうろう)はヴェネツィアのサン・マルコ広場にある鐘楼のこと


■ヴェネツィアにある観光名所の中でも特に有名であり街のシンボルとされている


■高さは98.6mあり、サン・マルコ寺院の前の角に単独で建っている


■最初に鐘楼が建てられたのは9世紀のことであり、当時のヴェネツィア共和国総督のピエトロ・トリブーノが現在のサン・マルコ広場の位置にあったドックの見張り台として建設しようとしたものであった


■建設は12世紀のドメニコ・モロシーニ総督時代に完了し下部はドゥカーレ宮殿の警護兵のための兵舎の一部としても使用された


■鐘楼は1514年に現在の形で完成している


■16世紀、ヴェネツィアでもっとも高いこの塔は、鐘楼と呼ばれるだけに、一日に幾度となく鐘を鳴らしては、市民たちの時計の役目を果たした


■サン・マルコ寺院付属の鐘楼でもあり、ヴェネツィアで最も重要な教会で行事が行われると、そのたびに鐘が鳴らされた


■船着き場の近くにそびえ立っていることもあって、艦隊の出港や帰港に、戦勝を願い祝う鐘の音がまっ先に鳴るのも、この鐘楼の上からだった


■さらに、夜ともなれば松明が焚かれ、鐘楼と呼ばれていても、灯台の役目も果たした


■鐘楼は1902年に崩壊したため、現在サン・マルコ広場に建っているのは1912年に再建されたものである
大阪桐蔭学校の歴史・沿革


■大阪桐蔭中学校・高等学校は、大阪府大東市にある男女共学の私立校である


■中学からの中高一貫コースと高校からのコースがある


■設置者は学校法人大阪産業大学である


■所在地:大阪府大東市中垣内3丁目1番1号


沿革
■高校生急増期の生徒受け入れを目的として、大阪産業大学高等学校(現・大阪産業大学附属中学校・高等学校)の分校として1983年(昭和58年)に大阪産業大学高等学校大東校舎が設置されたことに始まる


■その後1988年に大阪産業大学高等学校から独立した


■1988年に野球部を創部


■1991年には春のセンバツ大会、夏の選手権大会ともに甲子園初出場を果たした


■1995年に大阪桐蔭中学校を併設


■2013年 桐蔭アリーナ竣工。創立30周年記念式典開催。大阪桐蔭中学校高等学校校長に寺川国仁就任


■2014年 夏の選手権大会では決勝スコア4-3で三重高校に勝利し春夏通算5度目の全国制覇を成し遂げた


■寺川国仁学長のメッセージ
「私が生徒たちによく伝えているのは、「自分の個性を育むことと、他者を理解することの大切さ」です。とくに国際社会で活躍するためには、自分の意見を積極的に発信することが求められます。また自分とは違う価値観の人、異なる文化を受け入れる度量の広さも持ってほしいと願っています」
株式会社グリーンキャブの歴史・沿革


■株式会社グリーンキャブ は、東京都を拠点にハイヤー・タクシーと福祉車両、貸切バスを運行する事業者である


■タクシー事業においては東都自動車グループ、日の丸自動車グループとともに都内準大手3社の一社とされる


沿革
■昭和27年9月 新宿区花園町(現:新宿1丁目)にて創業


■昭和33年11月 全国に先駆けて全車両に無線を設置


■昭和43年 株式会社グリーンキャブ 板橋営業所 開設


■昭和49年 株式会社グリーンキャブ 平井、小岩営業所 開設


■昭和57年 代表取締役 髙野将弘 藍綬褒賞受賞


■昭和58年 マリー・ローランサン美術館 創立


■平成23年10月 マリー・ローランサン美術館を閉館


■平成25年8月 ヘキサ交通(足立区鹿浜)を買収


■概要
名称:株式会社グリーンキャブ
設立:昭和27年9月
資本金:1億3290万円
従業員数:約3,600名


■本社:東京都新宿区戸山3-15-1


■事業内容:旅客自動車運送事業


■売上高
平成23年:202億7575万円
平成24年:200億 398万円
花見の歴史・概要


■花見(はなみ)は、主に桜の花を鑑賞し、春の訪れを寿(ことほ)ぐ日本古来の風習である。梅や桃の花でも行われる


■花見は奈良時代の貴族の行事が起源だといわれる


■奈良時代には中国から伝来したばかりの梅が鑑賞されていたが、平安時代に桜に代わってきた


■織豊期には野外に出て花見をしたことが、絵画資料から確認される。この時期の大規模な花見は、豊臣秀吉が行った吉野の花見(1594年)や醍醐の花見(1598年)がある


■庶民の花見は徳川吉宗の時代からはじまったとされる


■8代将軍徳川吉宗が主導した「享保の改革」の一環として、隅田川堤(向島)や飛鳥山(王子)、御殿山(品川)などにサクラを植樹して、さらには花見客用の飲食店までつくらせて、庶民の花見を奨励したのがはじまりといわれる


■庶民の幕府に対する不満をかわすための施策だったとされる
トスカーナ大公国の歴史・概要



■トスカーナ大公国(トスカーナたいこうこく)は、16世紀から19世紀にかけて北イタリアに存在した国家。領域はほぼ現在のトスカーナ州にあたり、同州の前身となった


■トスカーナが政治的な実体を持って地理的文化的に成り立ったのは、15世紀から始まった都市国家フィレンツェがその拡大政策によって1405年にピサを、1421年にはリヴォルノを取得したことに始まった


■トスカーナ大公国の前身フィレンツェ共和国は、メディチ家が支配する16世紀に世襲制のトスカーナ公国になり、領土はトスカーナ地方全域に拡大した


■メディチ王朝の創設者
ジョヴァンニ・ディ・ビッチ・デ・メディチ略歴・経歴(プロフィール)
【1360年~1429年】15世紀始めのフィレンツェのメディチ家当主で、メディチ銀行を創設。一族の繁栄を築いた。ローマ教皇庁とのつながりを深め、銀行業で成功した


■メディチ家2代目
コジモ・デ・メディチ略歴・経歴(プロフィール)
【1389年~1464年】フィレンツェ生まれ。父ジョバンニの築いたイタリア第一の銀行のオーナーの地位を受け継ぎ、さらに発展させた。父が亡くなり、メディチ家当主となりメディチ家のフィレンツェ支配を確立した。コジモはフィレンツェに納められた税金のおよそ65%を負担し、死後ロ-マ皇帝にならい、「祖国の父」「pater patriae」の称号を贈られた


■初代トスカーナ大公
コジモ1世略歴・経歴(プロフィール)
【1519年~1574年】初代トスカーナ大公で、フィレンツェの名門メディチ家の1人。メディチ傍系であり、勇敢な傭兵隊長として知られた「黒隊長」ジョヴァンニ(1498-1526年)と妻マリーアの子。ルネサンス期の女傑として知られるカテリーナ・スフォルツァの孫に当たる
KRH株式会社の歴史・沿革・概要


■KRH株式会社(ケーアールエイチ)は、足場事業(くさび式足場の製造、販売、リース、レンタル、施工業務)を主な事業とする企業である


■岐阜県に本社を置く


沿革
■昭和62年10月 岐阜県羽島市竹鼻町狐穴143に資本金300万円にて信和サービス株式会社を設立


■昭和63年1月 クサビ式足場架け払いリース事業部を発足


■平成13年5月 株式の譲渡により息子の青山光司が代表取締役に就任


■平成19年5月 信和サービス株式会社をKRH&CO.,LTDに改称


■平成20年 本社を岐阜県安八郡輪之内町中郷新田2544-2に移転


■平成24年12月 静岡営業所を開設


■概要
名称:KRH株式会社
設立:昭和62年10月
資本金:30,000,000円
従業員:124名
足場架払技術者:250名


■本社
岐阜県安八郡輪之内町中郷新田2544-2


■事業内容
仮設機材-製造、販売、レンタル、施工、生分解事業-製造、販売
メディチ銀行の歴史・概要


■メディチ銀行は1397年 メディチ王朝の創始者、ジョヴァンニ・ディ・ビッチ・デ・メディチにより創設された


設立の経緯
■ジョヴァンニは遠縁に当たり、銀行家として成功していたヴィエーリ・ディ・カンビオが、ローマに設立した商社の社員として働きはじめる


■その後、妻の持参金を投資して共同経営者となり、1393年にヴィエーリが引退すると、その事業を受け継いだ


■そして、1397年に本社をフィレンツェに移した。有名なメディチ銀行の設立である


■メディチ銀行は20年間で目覚ましい発展を遂げる。ローマやヴェネツィアへ支店網を広げ、1410年にはローマ教皇庁会計院の財務管理者となり、膨大な額の財務をほとんど一手に任された


■教皇庁の金融業務で優位な立場を得て、莫大な収益を手にすることに成功する


■1420年からメディチ銀行の経営はジョヴァンニの長男コジモが引き継ぐ


■コジモは父に優る経営手腕を発揮し、銀行はますます発展する。メディチ家はフィレンツェ指折りの大富豪となった

■そして統領をはじめ、市の要職を歴任。寡頭政治を牛耳っていたアルビッツィ家に対抗しうる一大勢力の領袖となる


■メディチ銀行創設者
ジョヴァンニ・ディ・ビッチ・デ・メディチ略歴・経歴(プロフィール)
【1360年~1429年】15世紀始めのフィレンツェのメディチ家当主で、メディチ銀行を創設。一族の繁栄を築いた。ローマ教皇庁とのつながりを深め、銀行業で成功した


■メディチ銀行2代目
コジモ・デ・メディチ略歴・経歴(プロフィール)
【1389年~1464年】フィレンツェ生まれ。父ジョバンニの築いたイタリア第一の銀行のオーナーの地位を受け継ぎ、さらに発展させた。父が亡くなり、メディチ家当主となりメディチ家のフィレンツェ支配を確立した。コジモはフィレンツェに納められた税金のおよそ65%を負担し、死後ロ-マ皇帝にならい、「祖国の父」「pater patriae」の称号を贈られた
ポタラ宮の歴史・概要


■ポタラ宮は1642年、チベット政府「ガンデンポタン」の成立後、その本拠地としてチベットの中心地ラサのマルポリの丘の上に十数年をかけて建設された宮殿である


■ポタラ宮はチベットの首都であるラサの象徴ともいわれる宮殿である。1959年にダライ・ラマ14世がインドに亡命するまで、およそ300年にわたりチベットにおける聖俗両界の中心だった


■ポタラ宮はマルポリ山(赤い山の意)の上にそびえ、偉容をたたえて街を見下ろしている。その内部は迷宮のように入り組んだ廊下が続く


■ポタラ宮はとにかく壮大で、東西400メートル、主桜の高さ117メートル、宮殿の外壁は紅白の2色に塗り分けられ、それぞれ紅宮、白宮と呼ばれる


■白宮
白宮は、歴代ダライ・ラマの居住と政治的な執務にあてられた領域である。ダライ・ラマが「世俗王」として権力を行使する場といえる。1645年から8年の歳月をかけて、観音堂を中心に東西に建造されていった。寺全体の外壁が白色に塗られ、人目を引くことから、人々に白宮と呼ばれるようになる

■紅宮
白宮の西側に隣接して建てられている紅宮は、宗教的な領域である。ここはチベット仏教の総師ダライ・ラマが「祭司王」としての権威を発揮する場であったといえる。白宮と同じく、外壁全体が赤く塗られているため紅宮と呼ばれた
軽井沢朗読館の歴史・概要


■軽井沢朗読館は2010年にNHKを定年退職した、青木裕子(元NHKエグゼクティブアナウンサー)が朗読をライフワークとしており、退職に合わせ長野県軽井沢町に設立した


■退職後は東京の自宅に電話ボックスぐらいの小さな録音室を作って、大好きな宮澤賢治や樋口一葉や林芙美子らのすばらしい作家の作品をコツコツ録音して音声のライブラリーを作っていきたいという夢を持っていた


■そしてその夢を周りの人達にどんどんしゃべっていった


■すると以前、軽井沢の取材でお世話になった人から突然電話がかかってきた


■「青木さん、軽井沢に来ませんか」


■「でも私、定年後は録音室を自宅に作ってそこで文芸作品の音声ライブラリーを作っていこうと思っているので、ちょっと・・・」

■「では、軽井沢に録音室をつくればいいのではないですか」


■この会話がきっかけとなり、軽井沢朗読館の設立に至った


■軽井沢朗読館の所在地
・長野県北佐久郡軽井沢長倉千ヶ滝6056(セゾン現代美術館より1.5キロ)


■青木裕子(あおき・ゆうこ)略歴・経歴(プロフィール)
日本のフリーアナウンサー、朗読者。元NHKエグゼクティブアナウンサー。軽井沢町立図書館館長。1950年6月26日福岡県福岡市で生まれる。津田塾大学卒業。NHKに入局。2010年 定年退職。退職に合わせ長野県軽井沢町に「軽井沢朗読館」を設立した
フィレンツェの歴史・概要


■フィレンツェはイタリア共和国中部にある都市で、その周辺地域を含む人口約36万人の基礎自治体(コムーネ)である


■トスカーナ州の州都、フィレンツェ県の県都である


■中世には毛織物業と金融業で栄え、フィレンツェ共和国としてトスカーナの大部分を支配した


■メディチ家による統治の下、15世紀のフィレンツェはルネサンスの文化的な中心地となった


■市街中心部は「フィレンツェ歴史地区」としてユネスコの世界遺産に登録されている


■1986年には欧州文化首都に選ばれた


歴史
■フィレンツェは古代にエトルリア人によって町として建設されたが、直接の起源は紀元前59年、執政官カエサルによって入植者(退役軍人)への土地貸与が行われ、ローマ植民都市が建設されたことによる


■街の発展とともにローマ時代の狭い城壁域は徐々に拡大され、12世紀後半にはアルノ川南岸も含むほどに延長された


■12世紀に神聖ローマ帝国皇帝からコムーネ(自治都市)として認められたフィレンツェは毛織物工業や金融業で12、13世紀からヨーロッパ最大の経済力をもつ都市として繁栄し、15世紀にそれまでの思潮を一新させるルネサンス文化を生む母胎となった


■その経済的・文化的に中心となったのがメディチ家である


■16世紀前半にフィレンツェ共和国は滅亡する。勝者とともにフィレンツェ入りしたメディチ家は、スペインの王女を妻に迎え、スペイン支配下の君主国として、再出発することになった


■フィレンツェ共和国が消滅した後に、トスカーナ大公国が誕生した


現在
■花の都フィレンツェ。ルネサンス文化の花開いたこの街には、四季を通じて世界中から何百万人もの観光客がやってくる。街全体が一つの美術館と言われている
日本ポリグル株式会社の歴史・沿革・概要


■日本ポリグル株式会社は、ポリグルタミン酸の製造販売を中心に、水質浄化事業を行っている会社である


沿革
■2002年1月 日本ポリグル 創業


■2002年10月 日本ポリグル株式会社 設立


■2004年8月 システム技術研究所 開設


■2008年3月 資本金を1億円に増資


概要
■名称:日本ポリグル株式会社
■創立:2002年1月
■資本金:1億円
■創設者:小田兼利(代表取締役会長) 
■所在地本社
大阪市中央区内久宝寺町4-2-9 ポリグルビル  

■事業内容
・凝集剤の開発・製造・販売
・汚水処理システムの構築
・汚水処理のコンサルタント業務
・ポリグルタミン酸の研究・用途開発 健康食品の開発・販売
・化粧品の開発・販売

■創設者
小田兼利(おだ・かねとし)略歴・経歴(プロフィール)
日本の経営者。機械工学のエンジニア。ポリグルタミン酸の製造販売を中心に、水質浄化事業を行っている会社、日本ポリグル株式会社の創業者。1941年生まれ。熊本県出身。大阪大基礎工学部卒業。ダイキン工業に入社。1972年に独立。2002年1月に日本ポリグルを創業。国際ボランティア学生協会(IVUSA)特別顧問を務める
東洋ゴム工業株式会社の歴史・沿革・概要


■東洋ゴム工業株式会社は、大阪府大阪市西区江戸堀に本社を置く、タイヤ・自動車部品等のメーカーである


■主に自動車タイヤ、工業用ゴム、建築免震ゴム、プラスチック製品、軟・硬質ポリウレタン製品、防水シート、船舶用救命装置、鉄道車両用空気バネ、自動車部品用防振ゴム、シートクッション、スポーツ用品の製造・販売を行う大手企業として知られる


■TOYO TIRES(トーヨータイヤ)のブランド名で、「専用タイヤ発想」をコンセプトに、それぞれの車種に合う自動車タイヤを製造しており、特に海外での評判は高い


■概要
商号:東洋ゴム工業株式会社
設立:1945年8月1日
資本金:30,484百万円
従業員数(連結)10,292名(単体)2,913名
本社所在地:大阪市西区江戸堀1丁目17番18号


沿革
■1945年8月
東洋紡績(現、東洋紡)がゴム工業分野への進出を図る目的で、強化育成した東洋ゴム化工(株)、および(株)平野護謨製造所が合併、東洋ゴム工業(株)設立


■1953年7月
自動車タイヤ生産のため伊丹工場(兵庫県伊丹市)開設


■2015年1月
中国におけるタイヤ事業で「東洋輪胎」の漢字表記を「通伊欧輪胎」に変更


■2015年8月
創立70周年を機に本社を兵庫県伊丹市に移転予定
鹿島建設株式会社の歴史・沿革・概要


■鹿島建設株式会社(かじまけんせつ)は、日本の大手総合建設会社である。対外的には単に鹿島と称している


■超高層ビル事業を得意とし、蓄積された高度な技術とノウハウ、業界髄一の技術研究所を有している


■東京駅の八重洲口再開発や丸の内駅舎保存・復原工事(2012年10月1日完成)、秋葉原地区などの開発事業や海外でのプロジェクトにも実績が豊富である


歴史
■鹿島岩吉が江戸に出て大工修行をし、25歳の時に棟梁の株を得て独立。幕末には横浜に進出、英一番館(外国商館)などの洋風建築を手掛け、「洋風の鹿島」と謳われた


■息子の鹿島岩蔵が2代目を継ぐ。工部省鉄道頭・井上勝の知遇を得て鉄道工事を請け負う。全国に延びる鉄道建設の波に乗って発展、「鉄道の鹿島」の名を広め、今日の基礎を築いた


■3代目の鹿島精一(婿養子)は17年の歳月と多くの犠牲者を出しながら、1934年に世紀の難工事といわれた丹那トンネルを完成させた


■4代目の鹿島守之助(婿養子)は日本初の超高層ビルである、「霞が関ビル」を完成させるなど大躍進を遂げ「中興の祖」と呼ばれた


沿革
■1840年(天保11年) 鹿島岩吉が江戸四谷で大工の修行後、棟梁株を入手し江戸中橋正木町に店を構える


■1880年(明治13年)鹿島組創立。東京京橋木挽町九丁目に本店を構え、鹿島岩蔵が初代組長となる


■1930年(昭和5年)株式会社鹿島組設立(資本金300万円)。鹿島精一が社長となる


■1947年(昭和22年)社名を鹿島建設株式会社に改称


■1965年(昭和40年)日本で最初の超高層ビル、三井不動産霞が関ビル(地上36階)着工


■1973年(昭和48年)サンシャイン60着工


■1974年(昭和49年)最高裁判所新庁舎完成。新宿副都心のビル群(新宿住友ビル、KDDビル、新宿三井ビル)完成


■鹿島建設の歴代社長
初代:鹿島岩吉(1840~1880年)
2代:鹿島岩蔵(1880~1912年)
3代:鹿島精一(1912~1938年)
4代:鹿島守之助(1938~1957年)
5代:鹿島卯女(1957~1966年)
6代:渥美健夫(1966~1978年)
7代:石川六郎(1978~1984年)
8代:鹿島昭一(1984~1990年)
9代:宮埼明(1990~1996年)
10代:梅田貞夫(1996~2005年)
11代:中村満義(2005~2015年)
12代:押味至一(2015~)
株式会社八木澤商店の歴史・沿革・概要


■八木澤商店は江戸時代から続く老舗のしょうゆ店である


■概要
会社名:株式会社八木澤商店
資本金:1000万円
設立:昭和35年1月(1807年創業)
代表者:代表取締役 河野通洋
本社:岩手県陸前高田市矢作町字諏訪41


沿革
■文化4年(1807年) 八木澤酒造創業。大正年間しょうゆ醸造業を兼業


■昭和19年 当地方8名の酒造業が合併。気仙酒造操業工場となる


■昭和35年 株式会社八木澤商店となる


■平成15年 第30回全国醤油品評会にて、農林水産大臣賞受賞


■平成23年3月11日
東日本大震災により、岩手県陸前高田市は壊滅的被害を受け、八木澤商店も蔵、製造工場が全壊、流失


■平成23年12月
岩手県一関市花泉町につゆ・たれ工場を借り、しょうゆ加工品の製造を開始


■八木澤商店9代目社長
河野通洋(こうの・みちひろ)略歴・経歴(プロフィール)
1807年創業の醸造蔵の株式会社八木澤商店の9代目社長。岩手県中小企業家同友会理事。1973年6月24日生まれ。陸前高田市出身。コロラド州レッドロックスコミュニティカレッジ卒業。盛岡のホテルに入社して3年間、荷物運びや皿洗いなどをして働きながら、経営の勉強をする。その後、八木澤商店に入る。東日本大震災により、社屋、製造工場、自宅が全壊、流失。岩手県内陸部に拠点を移し復興に尽力している
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