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御土居の歴史・概要


■御土居(おどい)は豊臣秀吉によって作られた京都を囲む土塁である


■外側の堀とあわせて御土居堀と呼ぶ場合もある


■聚楽第、寺町、天正の地割とともに秀吉による京都改造事業の一つである


■一部が京都市内に現存し、史跡に指定されている


■秀吉は、あい続く戦乱により不分明となっていた洛中(京都)の境を、御土居の築造により新たに定めようとしたという伝えがあり、御土居の内部を洛中、外部を洛外と呼ぶことにしたという


■当時の都人の間でこの人為的な洛中・洛外の区画は不評であった


■秀吉が没して間もなく政権が徳川に移ると、御土居の外の鴨川河川敷に高瀬川が開削されてその畔には商家が立ち並んだから「洛中」は実質的に鴨川河畔まで広がった


■西部では洛外に通ずる出入り口が新たに20か所以上設けられて、洛中と洛外の農村の結びつきが強まり「町続き町」が形成されたから、ここでも実質的な「洛中」の拡大が見られた


■豊臣秀吉(とよとみ・ひでよし)略歴
1537年~1598年(天文6年~慶長3年)戦国時代から安土桃山時代にかけての武将・天下人・関白・太閤。尾張出身の戦国武将。農家出身ながら、織田信長に仕え、頭角を現す。1582年(天正10年)、本能寺の変で信長が横死にすると明智光秀を討ち、その後の後継者争いに勝利する。1590年(天正18年)、北条氏を下して事実上の天下統一を達成した。 62歳で没


■徳川家康(とくがわ・いえやす)略歴
1542年~1616年(天文11年~元和2年)江戸幕府初代将軍。岡崎城主松平広忠の子供として生まれるが、6歳のときより尾張の織田、駿河の今川で人質生活を送る。桶狭間の戦い以後、自立。信長と同盟、大大名になる。信長の死後、秀吉に臣従。秀吉の死後、関ヶ原の戦に勝利し3年後に幕府を開いた。大坂夏の陣で豊臣家を滅ぼす。75歳で没
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新京極通の歴史・概要


■新京極通(しんきょうごくどおり)は、京都市中京区の南北の通りの一つ。三条通から四条通までの比較的短い通りである


■1872年に京都府参事槇村正直によって作られた比較的新しい通りである


■かつては広大な寺域を誇った時宗十二派の四条派の金蓮寺(こんれんじ)が、18世紀末から寺域の切り売りをはじめ、明治以前に売却地に料亭・飲食店・商店・見世物小屋が建っていた


■一つ隣の寺町通(寺町京極)に集まる寺院の境内が、縁日の舞台として利用されるようになり、人が多く集まったため、各寺院の境内を整理し、寺町通のすぐ東側に新しく道路を造ったのが新京極通のはじまりである


■明治の中頃には見世物小屋や芝居小屋が建ち並び、現在の繁華街の原型ができた


■槇村 正直(まきむら・まさなお)略歴・経歴(プロフィール)
【1834年~1896年】日本の官僚、政治家。貴族院議員、男爵。幼名は半九郎。1875年7月、京都府知事となり東京奠都後の京都復興に尽力した。1881年1月、元老院議官となる。1887年5月、男爵を授爵し華族となる。1890年2月から行政裁判所長官となり、また同年7月に貴族院議員(男爵議員)となり、ともに死去するまで務めた


■時宗十二派(じしゅうじゅうには)は、時宗として総括される念仏勧進聖系の12の派である。時宗は、一般に一遍智真を開祖とするが、その他にも遊行、踊り念仏、念仏札の賦算等をする念仏勧進聖である「時衆」は、多数存在した


■金蓮寺(こんれんじ)は、京都市北区にある時宗の寺である。山号は錦綾山。本尊は阿弥陀如来


■寺町通(てらまちどおり)は京都市の南北の通りの一つ。北は紫明通から南は五条通まで。途中の三条通で以北に比べ以南は西に少しずれており、真っ直ぐではないのが特徴
禁門の変の歴史・概要


■禁門の変(きんもんのへん)は、元治元年7月19日(1864年8月20日)に、京都で起きた武力衝突事件のことをいう


■蛤御門の変(はまぐりごもんのへん)、元治の変(げんじのへん)、元治甲子の変とも呼ばれる


■「禁門の変」あるいは「蛤御門の変」の名称は、激戦地が京都御所の御門周辺であったことによる。蛤御門は現在の京都御苑の西側に位置し、今も門の梁には弾痕が残る


経緯
■元治元年(1864年)7月19日。京都で勢力の挽回を図る長州藩と、御所を守る幕府軍の間で激しい戦いが繰り広げられた


■前年8月18日の政変で京都政界を追放された長州藩であったが、池田屋事件が火に油を注ぐ結果となり、ついに武力行使に至った


■兵力では圧倒的に劣っていた長州軍であったが、尊攘派浪士の猛攻は凄まじいものであった。しかし、薩摩藩・会津藩を主力とする大軍の幕府軍には力及ばず、長州藩は敗走した


■この戦いは禁門の変と呼ばれているが、中でも激戦区だったのは西側の蛤御門(はまぐりごもん)であったため、蛤御門の変とも呼ばれている


禁門の変に関わった人物
■久坂玄瑞(くさか・げんずい)略歴・経歴(プロフィール)
【天保11年~元治元年(1840年~1864年)】幕末の長州藩士。萩藩医・久坂良迪の次男として生まれる。松下村塾で英才を知られ、吉田松陰の妹と結婚。藩を超えた尊王攘夷運動の中心人物として、国元と江戸・京都で活動する。イギリス公使館焼き打ち、外国船砲撃事件など過激な運動に参加し倒幕に動くが禁門の変に敗れ自刃。享年25


■高杉晋作(たかすぎ・しんさく)略歴・経歴(プロフィール)
【1839年~1867年(天保10年~ 慶應3年)】幕末期の長州出身の武士。吉田松陰の松下村塾に入門。尊王攘夷運動に身を投じ、下関防衛のため奇兵隊を創設、藩の倒幕運動を主導した。慶応2年(1866年)には第2次長州征伐に乗り出した幕府軍との戦いを指揮したが、翌年肺結核で没した。享年29歳


■桂小五郎(かつら・こごろう)略歴・経歴(プロフィール)
1833年~1877年(天保4年~明治10年)幕末から明治時代初期にかけての武士、政治家。維新三傑の一人。桂小五郎と称し、のちに木戸と改姓。尊攘運動に参加、薩長同盟を結んで倒幕運動を指導。維新政府の中心となり「五箇条の御誓文」起草に参画、版籍奉還・廃藩置県を推進した。征韓論・征台論に反対。享年45歳
琵琶湖疏水の歴史・概要


■琵琶湖疏水(びわこそすい)とは、琵琶湖の湖水を京都市へ流すために作られた水路(疏水)である


■琵琶湖疏水は、第1疏水(1890年に完成)と第2疏水(1912年に完成)を総称したものである


■京都市は禁門の変で市中の大半が焼け、明治維新と東京奠都(とうきょうてんと)に伴い人口が減少し産業も衰退したため、第3代京都府知事の北垣国道が灌漑、上水道、水運、水車の動力を目的とした琵琶湖疏水を計画した


■そして主任技術者として、工部大学校を卒業したばかりの田邉朔郎を任じ設計監督にあたらせた


沿革
■1881年(明治14年)北垣国道が京都府知事に就任、琵琶湖疏水の検討をはじめる


■第1疏水を1885年(明治18年)に着工


■1890年(明治23年)に大津市三保ヶ崎から鴨川合流点までと、蹴上から分岐する疏水分線とが完成した。4月9日には明治天皇・昭憲皇太后の御臨幸を仰ぎ竣工式を挙行している


■1912年(明治45年)第2疏水が完成


■1999年(平成11年)12月 第2疏水連絡トンネル竣工


■現在は琵琶湖疏水を通して年間2億トンの琵琶湖の湖水を得ていて、京都市から『疏水感謝金』として年間2億2千万円が滋賀県へ支払われている


■第3代京都府知事
北垣国道(きたがき・くにみち)略歴・経歴(プロフィール)
【1836年~1916年】幕末期の志士、明治時代の官僚、政治家。高知県令(第4代)、徳島県令(第7・8代)、京都府知事(第3代)、北海道庁長官(第4代)、貴族院議員(勅選)、枢密顧問官を歴任した


■主任技術者
田辺朔郎(たなべ・さくろう)略歴・経歴(プロフィール)
【1861年~1944年】日本の土木工学者。琵琶湖疏水や日本初の水力発電所の建設、関門海底トンネルの提言を行った。北海道の狩勝峠の名づけを行った。高島秋帆門下の洋式砲術家である田辺孫次郎の長男として江戸に生まれる。工部大学校卒業
ニッカウイスキーの歴史・沿革


■ニッカウヰスキー株式会社(現代仮名遣い:ニッカウイスキー)は、日本の洋酒メーカーである


■1934年、北海道余市郡余市町に前身である「大日本果汁株式会社」が設立され、同社の略称「日果(にっか)」の片仮名書きが現在のブランド名になっている


■2001年、筆頭株主のアサヒビール株式会社が全株式を取得して完全子会社化された


■ニッカウヰスキーが製造する商品の販売はアサヒビールが行なっている


概要
■ニッカウヰスキー株式会社
設立1934年(昭和9年)
従業員数:296名(平成25年12月31日現在)
資本金:100百万円(平成25年12月31日現在)
本社所在地:東京都港区南青山5丁目4番31号


■事業内容
・ウイスキー、ブランデー、スピリッツ、リキュール類、シードル、焼酎等の製造


沿革
■1934年7月 大阪市の芝蘭社家政学園にて大日本果汁株式会社設立総会開催


■1934年10月 北海道余市郡余市町に北海道工場(余市蒸溜所)を創業。ウイスキーの貯蔵を開始


■1940年 ニッカウヰスキー販売開始


■1954年 大株主の加賀正太郎が朝日麦酒株式会社(後のアサヒビール株式会社)に持ち株を売却。同社の傘下に入る


■1959年 兵庫県西宮市に西宮工場を創業


■1984年 シングルモルト北海道販売開始。国産初のシングルモルトウイスキー


■2011年 アサヒビール株式会社が持株会社移転によりアサヒグループホールディングス株式会社となり、新法人となったアサヒビール株式会社の機能子会社となる


■歴代社長
竹鶴政孝(創業者。1934年に設立。1943年に社長就任)
竹鶴威(1990年、1992年-1994年、1996年-1998年。3度社長を務める)
山下弘(2005年に社長就任)
中川圭一(現社長)



竹鶴政孝(たけつる・まさたか)略歴・経歴(プロフィール)
1894年~1979年(明治27年~昭和54年)ニッカウヰスキー創業者。広島県竹原市生まれ。大正5年、大阪高等工業卒。摂津酒造に入社後、英スコットランドでウイスキーづくり研究に従事。帰国後、寿屋(現・サントリー)に入社。昭和9年、北海道余市町で大日本果汁(現・ニッカウヰスキー)創業。84歳で没


竹鶴威(たけつる・たけし)略歴・略歴・経歴(プロフィール)
【1924年~2014年】日本のウイスキー製造者、技術者、会社経営者。ニッカウヰスキー社長、会長を歴任。1924年3月6日生まれ。北海道大学工学部応用化学科卒業。母・延代の弟でニッカウヰスキー創業者の竹鶴政孝の養子になる。現・ニッカウヰスキーに入社。1985年に同社社長に就任した。2014年12月17日、老衰のため自宅で死去した。享年90


山下弘(やました・ ひろし)略歴・略歴・経歴(プロフィール)
日本の経営者。ニッカウヰスキーの代表取締役社長を務めた。1947年生まれ。北海道函館市出身。北海道大学農学部卒業。1970年ニッカウヰスキー入社。アサヒビール酒類事業本部副本部長などを歴任。2002年アサヒビール執行役員。2005年ニッカウヰスキー株式会社代表取締役社長就任


竹鶴孝太郎(たけつる・こうたろう)略歴・経歴(プロフィール)
1953年、竹鶴政孝(ニッカウヰスキー創業者)・リタ夫妻の子息・威・歌子夫妻の長男として、北海道余市町で生まれる。ニッカウヰスキーに約20年間勤務を経て、株式会社アマナ事業開発室室長を歴任
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