華族会館の歴史・沿革


■華族会館(かぞくかいかん)は東京都千代田区にあった華族の集会所である


■1872年(明治5年)に洋行した河鰭実文と秋月種樹は、イギリス政界での貴族の役割に注目した。そして帰国後、山内豊誠・正親町公薫・平松時厚らと、議会開設に備えた有志の団体、通款社を1873年(明治6年)末に設立し、同じ趣旨を持った『麝香間祗候会議』と合同して、1874年(明治7年)6月、『華族会館』が発足した


■華族会館は単なるクラブではなく、書籍局、講義局、勉強局、翻訳局の設置がその規約に謳われており、1877年(明治10年)、華族子弟の教育機関として学習院が創立された


■華族会館が発足したのは浅草本願寺であったが、2ヵ月後に永田町の旧二本松藩邸に移り、ここで創立総会を開いている


■その後、神田錦町の学習院内、宝田町、上野公園内文部省官舎と移転し、1890年(明治23年)、鹿鳴館を借り受けて移転した


■1894年(明治27年)には、その土地8千坪とともに買い受けている


■この華族会館で若かりし頃、料理の修業をし、後に天皇の料理番となった秋山徳蔵がいる


山内豊誠(やまうち・とよしげ)略歴・経歴(プロフィール)
【1842年~1908年】土佐国土佐新田藩の第6代(最後の)藩主。第4代藩主・豊賢の弟・豊充の長男。正室は正親町実徳の娘。継室は妻木頼黄の姉、綾小路有長の娘。子は内藤正愨(長男、内藤正誠養子)、山内豊英(三男)。官位は従五位下、侍従


平松時厚(ひらまつ・ときあつ)略歴・経歴(プロフィール)
【1845年~1911年】幕末の公家、明治期の官僚・検察官。新潟県令、元老院議官、貴族院子爵議員、錦鶏間祗候。少納言・平松時言の長男として生まれる。安政2年(1855年)に元服し昇殿を許され、甲斐権介に任じられた


■秋山徳蔵(あきやま・とくぞう)略歴・経歴(プロフィール)
【1888年(明治21年)~1974年(昭和49年)】日本の料理人。西洋料理修行のためフランスに渡航。帰国後、東京倶楽部を経て宮内省大膳職主厨長を務め「天皇の料理番」と通称された。フランス料理アカデミー名誉会員。福井県出身
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上野精養軒の歴史・沿革


■上野精養軒(うえのせいようけん)は、東京都台東区上野恩賜公園内にある老舗西洋料理店で日本におけるフランス料理店の草分けである


■明治期には国内外の王侯貴族や名士達が馬車で駆けつけるなど、鹿鳴館時代の華やかな文明開化を象徴する存在であった


■夏目漱石や森鴎外の文学作品にも登場する


■1872年(明治5年) 三条実美や岩倉具視の援助により、東京府築地に「西洋館ホテル」創業

■1873年(明治6年) 西洋館ホテル、「精養軒ホテル」と改称


岩倉具視(いわくら・ともみ)略歴
【文政8年(1825年)~明治16年(1883年)】日本の公家、政治家。維新の十傑の1人。公卿・堀河康親の次男として京都に生誕した。政治的剛腕を発揮して、幕末から明治はじめにかけて、日本のカタチづくりに尽力。幕末のおもな働きとしては、公武合体による朝廷権力の復活を狙った和宮降嫁の推進。奇策・大政奉還でなおも政権掌握を狙った徳川慶喜を完全に失脚させたクーデター「王政復古」での宮中工作などがある


夏目漱石(なつめ・そうせき)略歴
【1867年~1916年】日本の国民的小説家。英文学者。江戸牛込馬場下横町(現・東京都新宿区)に生まれる。帝国大学(後の東京帝国大学)を卒業。明治36年、第一高等学校講師になり、東京帝国大学文科大学講師を兼任。明治38年1月 「吾輩は猫である」を『ホトトギス』に発表。明治39年4月 「坊っちゃん」を『ホトトギス』に発表。明治40年、朝日新聞社に入社。「虞美人草」「坑夫」「文鳥」、「夢十夜」「三四郎」「こゝろ」「道草」「明暗」などを朝日新聞に連載する。「明暗」執筆途中に死去(49歳10ヶ月)


森鴎外(もり・おうがい)略歴
【1862年(文久2年)~1922年(大正11年)】明治・大正期の小説家、評論家。島根県生まれ。東大医学部卒業後、陸軍軍医に。明治17年から4年間ドイツへ留学。帰国後、留学中に交際していたドイツ女性との悲運を基に処女小説「舞姫」を執筆。以後、軍人としては軍医総監へ昇進するが、内面では伝統的な家父長制と自我との矛盾に悩み、多数の小説・随筆を発表する。近代日本文学を代表する作家の一人。主な作品「青年」「雁」「阿部一族」」「高瀬舟」「山椒大夫」など
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