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富岡製糸場の歴史


■富岡製糸場(とみおかせいしじょう)は、群馬県富岡に設立された日本初の本格的な器械製糸の工場である


■日本の近代化だけでなく、絹産業の技術革新・交流などにも大きく貢献した工場であり、敷地を含む全体が国の史跡に、初期の建造物群が国宝および重要文化財に指定されている


■また、「富岡製糸場と絹産業遺産群」の構成資産として、2014年6月21日の第38回世界遺産委員会(ドーハ)で正式登録された


■江戸時代末期に鎖国政策を変えた日本は外国と貿易を始めた。当時最大の輸出品は生糸であった。輸出の急増によって需要が高まった結果、質の悪い生糸が大量につくられる粗製濫造問題がおき、日本の生糸の評判が下がってしまった


■明治維新後、政府は日本を外国と対等な立場にするため、産業科学技術の近代化を進めた。その一つとして政府は生糸の品質改善・生産向上と、技術指導者育成をするため、洋式の繰糸器械を備えた模範工場をつくることにした。これが富岡製糸場である


■富岡製糸場は、明治5年(1872年)に創業した日本初の官営模範製糸場である。明治政府の掲げた政策「殖産興業」の一翼を担うべく誕生したもので、ヨーロッパの技術と日本独自の工法が融合してできた世界最大規模の製糸工場であった


■1893年に三井家に払い下げられ、1902年に原合名会社、1939年に片倉製糸紡績会社(現片倉工業)と経営母体は変わったが、1987年に操業を停止するまで、第二次世界大戦中も含め、一貫して製糸工場として機能し続けた


略歴・経歴(プロフィール)
尾高惇忠(おだか・あつただ)
【1830年~1901年)】富岡製糸場の初代場長、および日本の実業家。第一国立銀行仙台支店支配人。通称は新五郎。号は藍香。渋沢栄一の義兄(栄一の妻・千代の兄)であり、尾高塾を開き、栄一に論語を教えた学問の師である。武蔵国榛沢郡下手計村(現・埼玉県深谷市下手計)に生まれた
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