下田踏海事件(しもだとうかいじけん)の歴史


■嘉永7年(1854年)3月27日、吉田松陰と松陰の一番弟子の金子重之助(重輔)が、下田沖の軍艦に潜入し海外密航を企て失敗した。これを松陰は「下田踏海」と呼んだ。伊豆下田市の歴史年表の中には、吉田松陰のことについては、「吉田松陰密航失敗」と、ほんの一行しか記録がないが、この下田踏海事件は、松陰のその後の人生に大きな影響を与えた


■吉田松陰(よしだ・しょういん)略歴
【1830年~1859年(文政13年~安政6年)】長州藩士、思想家、教育者、兵学者。萩城下松本村で長州藩士・杉百合之助の次男として生まれる。1854年、ペリー2度目の来航の際、長州藩足軽・金子重之助とともに密航計画を企てるも失敗、萩の野山獄に幽囚される。1855年、生家で預かりの身となるが、1857年、叔父の玉木文之進が開いていた私塾・松下村塾を引き受けて主宰者となり、高杉晋作をはじめ久坂玄瑞、伊藤博文、山県有朋、吉田稔麿、前原一誠など、維新の指導者となる人材を教え育てる。最期は江戸伝馬町の獄において斬首刑に処される。29歳で没


■金子重之輔(かねこ・しげのすけ)略歴
【1831年~1855年】幕末の長州藩士。江戸に出て長州藩邸の雑役となる。学問を志して蒼龍軒塾に通い諸藩の志士と交わっていた際、同郷の松陰を紹介され、松陰初の弟子となった。ペリー来航を受けて松陰が米国に密航しようとした下田踏海事件では自ら進んで米国行きを希望。従者として松陰を手助けしたが、失敗。松陰と共に自首する。安政2年(1855年)に岩倉獄にて獄死する
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