中島飛行機の歴史・沿革


■中島飛行機は1917年から1945年まで存在した日本の航空機・エンジンメーカー。エンジンや機体の開発を独自に行う能力と、自社での一貫生産を可能とする高い技術力を備え、第二次世界大戦終戦までは東洋最大、世界有数の航空機メーカーであった

■中島飛行機株式会社
設立:大正7年
創業者:中島知久平(なかじま・ちくへい)
従業員:約25万人
工場:全国に100ヶ所以上

■わが国史上、最大の軍需工場で終戦までに計29925機の航空機を生産。第2次大戦中の名機、隼(はやぶさ)、疾風(はやて)、鍾馗(しょうき)などいずれも中島飛行機が手掛けた。三菱が設計した零戦の全体の約2/3も中島飛行機が生産。戦後は解体され工場の幾つかが、富士重工、富士精密に受け継がれた。そして富士精密がプリンス自動車さらに日産自動車に変わる。

■主な製作所、工場(関東地方とその周辺)
・太田製作所(群馬県)・・・隼を量産
・桐生工場(群馬県)
・宇都宮製作所(栃木県)

■東京都
・武蔵野製作所(主に陸軍の航空発動機を生産)
・多摩製作所(主に海軍の航空発動機を生産)
・武蔵製作所(昭和18年11月に生産効率を上げるため武蔵野製作所と多摩製作所を統合
し武蔵製作所となる。国内の25%を占める日本最大の大航空発動機生産工場となる。従
業員の数は徴用工や学徒動員などを含めて約4万人いた)
・三鷹研究所→富士産業三鷹工場→富士工業三鷹工場→富士重工三鷹製作所
・東京製作所(荻窪工場)→富士精密→プリンス自動車→日産自動車(荻窪工場)
・田無運転場
・立川出張所
・大宮製作所(埼玉県)
・三島製作所(静岡県)、浜松製作所(静岡県)

■中島知久平(なかじま・ちくへい)略歴
明治17年~昭和24年(1884年~1949年)わが国史上、最大の軍需工場・中島飛行機(のちの富士重工業)の創始者、実業家、政治家。大正・昭和初頭にかけて国防思想の主流となった「大艦巨砲主義」に異を唱え、はやくから「航空機主義」を主張し、大正7年、35歳の時、みずから民営航空機企業、『中島飛行機』をつくった。群馬県新田郡の富農に長男として生まれ、明治33年17歳で家出を敢行。独学により海軍機関学校に入学、明治40年代はじめより憑かれたように航空機の研究に熱中した。第2次大戦中の名機「隼(はやぶさ)」「疾風(はやて)」「鍾馗(しょうき)」など、いずれも中島製作所が手掛けた。しかし、敗戦とともにA級戦犯に指定され、自宅拘禁。その後、戦犯指定を解除されたが、財産凍結の措置を受けたまま脳溢血で没した
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