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小津産業の歴史


■小津産業株式会社(おづさんぎょう)は、東京都中央区日本橋本町に本社を置く企業である


■電子工学分野や医療分野で使われる紙や不織布などの製造販売を行っている


■企業理念
「わたしたちは、伝統とは継続的な開拓の歴史との認識のもと、お客さまの満足や喜びを第一に考えた新しい付加価値を提案し、豊かな暮らしと文化に貢献してまいります」


■創業者:小津清左衛門長弘


■1653年、小津清左衛門長弘が、江戸の商業地大伝馬町(現在の本社所在地)に紙問屋「小津清左衛門店」を創業したのが、現在の小津産業株式会社の始まり


■1755年、紀州藩松坂御為替御用に加わる。江戸表において御為替御用を命ぜられる


■1903年、日本細糸紡績会社の工場を買収、「小津細糸紡績所」を設立


■1939年 小津商事株式会社を設立


■1944年 小津産業株式会社に社名変更


■2001年 東京証券取引所2部に上場


■2014年 東京証券取引所1部に指定替え


略歴・経歴(プロフィール)
■小津清左衛門
現在の小津産業株式会社の創業者。伊勢国松坂(現在の三重県松阪市)出身の伊勢松阪商人。江戸の紙商に奉公し、承応2年(1653年)に独立して、大伝馬町一丁目(現在の日本橋本町三丁目)に紙店「小津屋」を開業した
知床半島の歴史


■知床半島(しれとこはんとう)は、北海道斜里郡斜里町と目梨郡羅臼町にかけてあり、オホーツク海の南端に突出した半島である


■半島東側には国後島が平行する形で横たわっている


■知床半島には、数千年にさかのぼる先史時代の遺跡が数多く残されている


■中でも10世紀前後にオホーツク海沿岸で栄えた北方の漁猟民族によるオホーツク文化の影響を受けて、アイヌの人々はシマフクロウやヒグマ、シャチなどを神と崇め、狩猟や漁撈、植物採取などをしながら豊かな自然を大切にした文化を育んできた


■2005年『第29回世界遺産委員会』において知床の「世界自然遺産」登録が決まった


■知床半島には森繁久弥の大きな銅像がある


■略歴・経歴(プロフィール)
森繁久弥(もりしげ・ひさや)
【1913年~2009年】日本の俳優、コメディアン。元NHKアナウンサー。大阪府枚方市出身。血液型はB型


■世界遺産(せかいいさん)は、1972年のユネスコ総会で採択された「世界の文化遺産及び自然遺産の保護に関する条約」(世界遺産条約)に基づいて世界遺産リストに登録された、遺跡、景観、自然など、人類が共有すべき「顕著な普遍的価値」を持つ物件のことで、移動が不可能な不動産やそれに準ずるものが対象となっている
穴太衆の歴史  


■穴太衆(あのうしゅう)は、日本の近世初期にあたる織豊時代(安土桃山時代)に活躍した、石工の集団。主に寺院や城郭などの石垣施工を行った技術者集団である


■石工衆(いしくしゅう)、石垣職人(いしがきしょくにん)とも称す。「穴太」の歴史的仮名遣での読み仮名は「あなふ」である


■穴太衆積は自然の石を自然の形に積み重ねていくところに特徴があり、石の心がわかり石の声が聞こえてはじめて一人前といわれる


■穴太衆は、近江の比叡山山麓にある穴太(穴太ノ里[あのうのさと]などとも俗称。現在の滋賀県大津市坂本穴太。延暦寺と日吉大社の門前町・坂本の近郊)の出身で、古墳築造などを行っていた石工の末裔であるという


■穴太衆は寺院の石工を任されていたが、高い技術を買われて、安土城の石垣を施工したことで、織田信長や豊臣秀吉らによって城郭の石垣構築にも携わるようになった


■それ以降は江戸時代初頭に到るまでに多くの城の石垣が穴太衆の指揮のもとで作られた


■彼らは全国の藩に召し抱えられ、城石垣等を施工するようになったというが、不明な部分も多い



織田信長(おだ・のぶなが)略歴
1534年~1582年(天文3年~天正10年)尾張の戦国武将。尾張を統一し、桶狭間の戦いで今川義元を破ったのち、斎藤氏を破り美濃を制圧。足利義昭を追放して室町幕府を実質的に滅亡させた。1582年(天正10年)、天下統一を前に家臣の明智光秀に襲われ、京の本能寺で自害した。享年49歳


豊臣秀吉(とよとみ・ひでよし)略歴
1537年~1598年(天文6年~慶長3年)戦国時代から安土桃山時代にかけての武将・天下人・関白・太閤。尾張出身の戦国武将。農家出身ながら、織田信長に仕え、頭角を現す。1582年(天正10年)、本能寺の変で信長が横死にすると明智光秀を討ち、その後の後継者争いに勝利する。1590年(天正18年)、北条氏を下して事実上の天下統一を達成した。 62歳で没
築地市場の歴史・沿革



■築地市場(つきじいちば、つきじしじょう)は、東京都中央区築地にある公設の卸売市場である


■東京都内に11か所ある東京都中央卸売市場のひとつだが、その規模は日本・世界最大(広さでは大田市場のほうが広いが、取引金額は大田市場より大きい)であり、代表的な卸売市場である


歴史・沿革
■江戸時代から東京の食品流通を担ってきた日本橋魚河岸をはじめとする市場群が、1923年(大正12年)9月に起きた関東大震災で壊滅したのを受け、12月、隅田川や汐留駅といった水運、陸運に恵まれていた旧外国人居留地(築地居留地)の海軍省所有地を借り受けて臨時の東京市設魚市場を開設したのが、築地市場の始まりである


■1935年(昭和10年)に現在の位置(京橋区築地)に東京市中央卸売市場が開設された


■1954年(昭和29年)にビキニ環礁での米国の水爆実験(キャッスル作戦ブラボー実験)により被曝した、第五福竜丸の水揚げ水産物であるマグロやヨシキリザメが同年3月15日築地市場へ入荷、これらは強い放射性物質を有し市場は混乱状態に


■セリは中断され、残った水産物も軒並み相場は値つかずとなった。行政は被曝水産物を場内の地中に埋めるよう指示し、埋めた地点に「原爆マグロ」の塚を建立、現世にその災禍を伝えている(2006年現在、市場再整備等により一時的に夢の島第五福竜丸展示館に移設)。現在は市場の外壁に記念プレートが掲げられている。通行の支障を考慮してプレートになったという


■2017年(平成29年)2月以降、豊洲市場が開場予定。ほぼ同時期に築地市場は解体され、中央卸売市場の機能を新市場へ引継ぐこととなる


関連情報
■第五福竜丸(だいごふくりゅうまる)は、1954年3月1日に、ビキニ環礁でアメリカ軍の水素爆弾実験によって発生した多量の放射性降下物(いわゆる死の灰)を浴びた、遠洋マグロ漁船の船名である


■豊洲市場(とよすしじょう)は、東京都江東区豊洲六丁目に新設が予定されている東京都中央卸売市場の一つ。2017年2月以降に開場予定


■水産仲卸売場棟、水産卸売場棟、青果棟の設計は日建設計が行っている


■豊洲市場敷地は元々東京ガスの工場跡地で土壌汚染があった。この問題に対して移転先の用地の土の上に4.5メートルの汚染されていない土壌を重ねる対策を行うとして用地整備と建築を進めていた。しかし2016年に東京都知事が小池百合子に代わった際豊洲市場の建物地下には盛り土がされておらず空間になっていたことが発覚した


■小池百合子(こいけゆりこ)略歴・経歴(プロフィール)
東京都知事。国会議員。環境大臣、防衛大臣、自由民主党総務会長などを歴任。元ニュースキャスター。昭和27年~(1952年~)兵庫県芦屋市で生まれる。甲南女子中学校、甲南女子高等学校卒業。関西学院大学社会学部中退、カイロ大学文学部社会学科を首席で卒業。アラビア語通訳、テレビ東京「ワールドビジネスサテライト」初代メインキャスターとして活躍。平成4年、政界に転身
上高地の歴史・沿革


■上高地(かみこうち)は、長野県西部の飛騨山脈南部の梓川上流の景勝地である。中部山岳国立公園の一部ともなっており、国の文化財(特別名勝・特別天然記念物)に指定されている。標高約1,500m。全域が松本市に属する


■上高地は、飛騨山脈(北アルプス)の谷間(梓川)にある、大正池から横尾までの前後約10km、幅最大約1kmの堆積平野である


■かつて岐阜県側に流れていた梓川が焼岳火山群の白谷山の噴火活動によってせき止められ池が生じ、そこに土砂が堆積して生まれたと考えられている


■「日本近代登山の父」と呼ばれた、英国人宣教師ウォルター・ウェストンが1896年(明治29年)に英国で出版した『日本アルプスの登山と探検』で上高地や穂高連邦、槍ケ岳を称賛。以後、多くの外国人登山家や、国内の皇族などが上高地を訪れた。未開拓な地であったが、山岳リゾートの幕開けとなった


■芥川龍之介が、1927年(昭和2年)に発表した小説『河童』では、物語の冒頭に上高地と河童橋を登場させており、この小説の影響で上高地の名は一躍全国的な知名度を上げた
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